第71話 第三の欺瞞『虚飾の傑作』【8】

文字数 1,514文字

【8】

 太宰はこの、

【どのやうに道徳に反しても、恋するひとのところへ涼しくさつと走りよる人妻の姿さへ思ふ浮かぶ。】

 という一節を書き加えることによって、太田静子の思想を換骨奪胎してしまい、『斜陽』をメロドラマにしてしまったのだ。

 もし太宰が、先に引用した部分を、むしろ加工せずそのまま使用し、

【けれども、私はこの古い思想を、片端から、何の躊躇もなく破壊して行く、がむしゃらな勇気に、おどろいた。破壊思想。破壊は哀れで悲しくて、美しいものだ。破壊して立て直して、完成しようという夢。完成と云うことは、永遠に、この世界ではないものなのに、破壊しなければならないのだ。新しいもののために。】

 と、原文のまま蛇足を加えずに終わっていたなら、太宰がラストシーンに置いた『私の道徳革命の完成なのでございます。』という言葉が、まさに生きてきたのではないかと思えるのだが。

 太宰はなぜ、このようなメロドラマのようなフレーズをわざわざ挿入したのか。
 『斜陽』を恋愛小説に仕立てるためなのか。
 また、太田静子はこの時すでに「人妻」ではなかったのにもかかわらず、『斜陽』の中になぜ唐突に「人妻」なる言葉が登場してきたのか。

 そして、この一文が書かれた文節の後には、『斜陽』を代表する有名な言葉である、

【人間は恋と革命のために生まれてきたのだ。】

 という主人公かず子の独白が続く。
 太宰は、この文章について太田静子の言葉をほぼそのまま使用しているが、その直前の文章はかなり太宰の手で加筆されており、原文に比べてかなり読みにくくなっている。
 原文の方は、かなりシンプルで内容も判りやすいものだ。

【いったい、私は、その間、何をしていたのだろう。革命へのあこがれもなかった。……何もしていなかった。恋さえ、知らなかった。革命と恋、この二つを、世間の大人たちは、愚かしく、いまわしいものとして、私達に教えたのだ。この二つのものこそ、最も悲しく、美しくおいしいものであるのに。人間は恋と革命のために生まれて来たのであるのに。】(同)

 次に、その一節を『斜陽』において太宰が加工した部分をあげる。

【いつたいまあ、私はそのあひだ、何をしてゐたのだろう。革命を、あこがれた事も無かつたし、恋さへ、知らなかつた。いままで世間のおとなたちは、この革命と恋の二つを、最も愚かしく、いまはしいものとして私たちに教へ、戦争の前も、戦争中も、私たちはそのとほりに思ひ込んでゐたのだが、敗戦後、私たちは世間のおとなを信頼しなくなつて、何でもあのひとたちの言ふ事の反対のはうに本当の生きる道があるやうな気がして来て、革命も恋も、実はこの世でこの世で最もよくて、おいしい事で、あまりいい事だから、おとなのひとたちは意地わるく私たちに青い葡萄だと嘘ついて教へてゐたのに違いないと思ふやうになつたのだ。私は確信したい。人間は恋と革命のために生まれて来たのだ。】

 太宰の文章の冗長で説明的なこと。うねうねとしてまことに読みにくい。
 太田静子の原文を読めば、太宰の加筆が蛇足であることが明白になる。
 なぜ、太宰の加筆部分が説明的になってしまうのか。

 それは、

【いままで世間のおとなたちは、この革命と恋の二つを、最も愚かしく、いまはしいものとして私たちに教へ、戦争の前も、戦争中も、私たちはそのとほりに思ひ込んでゐたのだが、敗戦後、私たちは世間のおとなを信用しなくなつて、何でもあのひとたちの言ふ事の反対のはうに本当の生きる道があるやうな気がして来て、】

 という一節を原文の中に無理矢理入れ込んだからだ。
 太宰はこの一節を、「古い道徳」を代表するものとして挿入し、後半の伏線としたようにも読める。
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