第77話 第三の欺瞞『虚飾の傑作』【14】
文字数 1,301文字
【14】
太宰が『斜陽』に書いた【古い道徳】とは、ミタカ美容院の店主塚本サキが、富栄にした「お説教」だったのだ。
その説教の内容には、
「あなたが妻子ある作家とつきあっているなんて、恩師の娘を預かっている私の立場はどうなります」
「美容師の人格向上を教えた晴弘先生の娘が、不埒な真似をして、親不孝ですこと」
「二号さんの美容師なんて不潔です」
「そんな噂がたてば商売にさわります」
「ご主人の戦死広報も届かないうちから、みっともない真似をして、恥ずかしい」
「そもそも小説家なんて、堅気じゃない」
などと、まさに「古い道徳」の全てが含まれている。
富栄は自身の日記の中で、そんな古い道徳を自分に押し付ける塚本サキを『教養のない主人』と評している。
そして、太宰が『斜陽』の中で、
【片端から旧来の思想を破壊していくがむしゃらな勇気である。どのやうに道徳に反しても、恋するひとのところへ涼しくさつと走りよる人妻の姿さへ思ふ浮かぶ。】
と書いたのは、おそらく、太田静子ではなく、新しい恋人山崎富栄の存在を念頭に置いたものだったのだろう。
山崎富栄の夫はフィリピンに出征しており、既に戦死が予見されていたが、戦死広報が届かない限りは戦死したことにはなっていないので、山崎富栄はこの時点でまだ「人妻」である。
富栄自身もそれを自覚していて前掲した日記にこう書いている。
【ああ、もう、生きていることが、つろうございます。愛人をもって、夫の生死を案じ、第三者からコヅかれて、それでも黙って生きているのです。】
太宰は、戦中に発表した『散華』(昭和十九年)に、
【玉砕といふ題にするつもりで原稿用紙に、玉砕と書いてみたが、それはあまりに美しい言葉で、私の下手な小説の題などには、もつたいない気がして来て、玉砕の文字を消し、題を散華と改めた。】
という書き出しで、戦死した友人を追悼してみせて、最後にはこう結んだ。
【純粋の献身を、人の世の最も美しいものとしてあこがれ努力してゐる事に於いては、兵士も、また詩人も、あるひは私のやうな巷の作家も、違つたところは無いのである。】
殊勝気にこう書いてみせた太宰が、いくら戦後になったとはいえ、出征した夫とまだ夫婦関係にある人妻と不倫関係になるという神経は、いったいどのような精神構造から生まれるのだろうか。
『散華』に書いてみせたことが太宰の本心ならば、国のために戦地に赴きそこで玉砕した兵士の『純粋の献身』を賛美した太宰ならば、そのような兵士の妻と関係を持つことなど到底できない筈だ。
その点、太田静子との関係といい、山崎富栄との関係といい、太宰の女性関係は、自身の作品上の言論との不一致が顕著であるが、太宰はおそらくその不一致を自覚していたのではないか。
古い価値観に縛られた小心者の太宰には、富栄と関係を持つにあたって、ある種の良心の呵責があったのだろう。
だからこそ『斜陽』に、【どのやうに道徳に反しても、恋するひとのところへ涼しくさつと走りよる人妻の姿さへ思ふ浮かぶ。】などと態々 書いて、自分と富栄との不倫関係を、富栄にもそして自分にも正当化する必要があったのではないだろうか――。
太宰が『斜陽』に書いた【古い道徳】とは、ミタカ美容院の店主塚本サキが、富栄にした「お説教」だったのだ。
その説教の内容には、
「あなたが妻子ある作家とつきあっているなんて、恩師の娘を預かっている私の立場はどうなります」
「美容師の人格向上を教えた晴弘先生の娘が、不埒な真似をして、親不孝ですこと」
「二号さんの美容師なんて不潔です」
「そんな噂がたてば商売にさわります」
「ご主人の戦死広報も届かないうちから、みっともない真似をして、恥ずかしい」
「そもそも小説家なんて、堅気じゃない」
などと、まさに「古い道徳」の全てが含まれている。
富栄は自身の日記の中で、そんな古い道徳を自分に押し付ける塚本サキを『教養のない主人』と評している。
そして、太宰が『斜陽』の中で、
【片端から旧来の思想を破壊していくがむしゃらな勇気である。どのやうに道徳に反しても、恋するひとのところへ涼しくさつと走りよる人妻の姿さへ思ふ浮かぶ。】
と書いたのは、おそらく、太田静子ではなく、新しい恋人山崎富栄の存在を念頭に置いたものだったのだろう。
山崎富栄の夫はフィリピンに出征しており、既に戦死が予見されていたが、戦死広報が届かない限りは戦死したことにはなっていないので、山崎富栄はこの時点でまだ「人妻」である。
富栄自身もそれを自覚していて前掲した日記にこう書いている。
【ああ、もう、生きていることが、つろうございます。愛人をもって、夫の生死を案じ、第三者からコヅかれて、それでも黙って生きているのです。】
太宰は、戦中に発表した『散華』(昭和十九年)に、
【玉砕といふ題にするつもりで原稿用紙に、玉砕と書いてみたが、それはあまりに美しい言葉で、私の下手な小説の題などには、もつたいない気がして来て、玉砕の文字を消し、題を散華と改めた。】
という書き出しで、戦死した友人を追悼してみせて、最後にはこう結んだ。
【純粋の献身を、人の世の最も美しいものとしてあこがれ努力してゐる事に於いては、兵士も、また詩人も、あるひは私のやうな巷の作家も、違つたところは無いのである。】
殊勝気にこう書いてみせた太宰が、いくら戦後になったとはいえ、出征した夫とまだ夫婦関係にある人妻と不倫関係になるという神経は、いったいどのような精神構造から生まれるのだろうか。
『散華』に書いてみせたことが太宰の本心ならば、国のために戦地に赴きそこで玉砕した兵士の『純粋の献身』を賛美した太宰ならば、そのような兵士の妻と関係を持つことなど到底できない筈だ。
その点、太田静子との関係といい、山崎富栄との関係といい、太宰の女性関係は、自身の作品上の言論との不一致が顕著であるが、太宰はおそらくその不一致を自覚していたのではないか。
古い価値観に縛られた小心者の太宰には、富栄と関係を持つにあたって、ある種の良心の呵責があったのだろう。
だからこそ『斜陽』に、【どのやうに道徳に反しても、恋するひとのところへ涼しくさつと走りよる人妻の姿さへ思ふ浮かぶ。】などと