第82話 第三の欺瞞『虚飾の傑作』【19】

文字数 1,450文字

【19】

 太宰は、『人間失格』の中で、「人間」とその「人間」が生きる「現実世界」を否定しているのである。
 「人間」と「現実世界」こそが醜悪な存在であって、その醜悪な存在を信じて汚されてしまったヨシ子と、醜悪な人間界から落伍した主人公葉蔵の二人だけが、天使のような存在だと太宰は言っているのだ。 

 だから、主人公を知るバーのマダムが主人公を評して語る、

【私たちの知つている葉ちやんは、とても素直で、よく気がきいて、あれでお酒さへ飲まなければ、いいえ、飲んでも、……神様みたいないい子でした。】

 という結末の言葉は、決して太宰のアイロニーなどではなく、彼の偽りのない真意であり、この小説のネタばらしであったのだと私は今感じている。

 極論すれば、太宰は、『人間失格』を通して「こんな醜悪な人間界という現実世界には、ナイーブでセンシティブな自分はとても生きていけない。私は人間失格である。なぜなら、私は天使なのだから」と言っているのではないか。
 つまり、自分が懐柔しきれない「人間と人間社会」を矮小化し否定してみせ、そこに納まらない自分の方を肯定したように思えてならないのだ――。

 太宰の『二十世紀旗手』(昭和十二年)には、
【五唱 嘘つきと言はれるほどの律義者】
 という章がある。それは比喩でも何でもなく、太宰の偽らざる気持ちなのだろう。

 太宰は究極的には馬鹿正直であり嘘が下手だ。
 上手く嘘をつけないから、にっちもさっちも行かなくなると狂言自殺を企てる。
 どうでもいいことにはペラペラと嘘を並べられても、重大事には嘘のつけない正直者なのではないのか。
 太宰の本質は、このような究極的な正直者、つまり「自己にのみ正直な正直者」であり、その感覚が世間とは微妙にズレていることを幼い頃から実感していたのではないか。

 自分の都合のいいように、自分が生きやすいように、自己欺瞞と適当な嘘をつきながら世の中を渡っていくことのできる人間が「普通の人」とみなされる社会では、それができない人間は「社会の落伍者」とみなされるが、太宰は『人間失格』でそれを逆転してみせた。 

 おそらく、『人間失格』は、読み手によって太宰の真の意図を把握できない人間と、把握できる人間に二分される作品なのだろう。
 そして、現代社会においては、太宰の真の意図を把握できる人間がぞくぞくと増えている筈だ。

 しかし、太宰の執筆意図に反して、『人間失格』は明らかに力不足の作品だ。
 主人公とは反対側にいる人間達が、なぜ醜悪な生き方をせざるを得ないのかという点が描かれていない。
 ここで太宰が見ているのは己の心象のみである。
 だから太宰は、自分は描けても他の人間は描けない。
 『人間失格』は、物語として、もっと奥深い小説となる可能性を秘めながらも、『思ひ出』と『逆行』と『道化の華』を合わせて焼き直しした二番煎じの作品で終わってしまったように思えてならない。

 太宰の構成力の弱さは、病による体力不足という要因もあるのかもしれない。
 太宰がもし、作家としての自分の使命を自覚し、それによって生きることから逃げずに養生していたら、年齢を経てもっと骨太の作品が書けたのではないだろうか。

 太宰が、結核という当時不治の病を患っていたことを承知で敢えて言わせて貰うが、太宰は「馬齢を重ねて生きる」ということができなかった。
 それは馬齢を重ねても生きることの価値を知らなかったからだ。
 人間には、馬齢を重ねて生きるうちに卒然として自分の天命を悟ることもあるのだ――。
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