第26話 第一の欺瞞『如是我聞』【18】
文字数 1,037文字
【18】
『如是我聞』は四回に渡って掲載されており、志賀批判は最初から始まっているのだが、四回目ではいきなりその批判のトーンが上がる。
これは、昭和二十三年の『文芸』六月号の座談会『作家の態度』で志賀が太宰の『斜陽』を取り上げた速記録を、太宰が読んで逆上したことが理由であることは、太宰自身も『如是我聞』の中に書いていることだが、太宰は志賀に『斜陽』を取り上げられて、なぜそこまで逆上したのだろうか。
その座談会で、志賀が太宰を評した、
【もう少し真面目にやつたらよかろうといふ気がするね】
の一言に、太宰は「見透かされた」と、ハッとしたのではないかと私は考えている。
それは例えば、『人間失格』の中で、葉蔵が己の計算づくの道化を竹一に見破られたときの狼狽と同じようなものではなかったのか。
太宰にとって、『斜陽』は思い入れの深い特別の作品であった筈だが、太宰は、『斜陽』の作品としての出来には満足していなかったのではないだろうか。
おそらく、太宰には、『斜陽』が他人の日記の引き写しであることの引け目があった筈だ。
太宰は『斜陽』の中盤以降、自分と太田静子の関係を描くことによって、「作家としての良心」を示したかのようにも見えるけれど、己がしでかした世間から後ろ指を指されるような醜聞を、小説の虚実の間に塗り込めてしまったようにも読めるし、後付けで「芸術のためだった」と言い訳をしているようにも感じられる。
だから私は、『斜陽』を書いた太宰の「作家の態度」について、志賀が【もう少し真面目にやつたらよかろうといふ気がするね】【ポーズが気になるな】とした直感的な指摘には、非常に同感できるところがある。
太宰は、自分でも『斜陽』に対して、ある種の「やましさ」を持っていたのではないか。
その「やましさ」は太宰がいかに否定しようとしても、太宰の心のどこかに常に引っ掛かっていたのではないか?
そして、その「やましさ」をこともあろうに志賀に衝かれたと感じて、太宰は逆上したのではないのか――。
【民主主義の本質は、それは人によつていろいろに言へるだらうが、私は、「人間は人間に服従しない」あるひは「人間は人間を征服出来ない、つまり、家来にすることが出来ない」それが民主主義の発祥の思想だと考えへてゐる】
これは『如是我聞』の一節である。
誠にもって正論であり本質を衝いた言葉だと思うのだが、太宰が本当にこう考えていたなら、『如是我聞』なる手記は生まれなかった筈ではないのか――。
『如是我聞』は四回に渡って掲載されており、志賀批判は最初から始まっているのだが、四回目ではいきなりその批判のトーンが上がる。
これは、昭和二十三年の『文芸』六月号の座談会『作家の態度』で志賀が太宰の『斜陽』を取り上げた速記録を、太宰が読んで逆上したことが理由であることは、太宰自身も『如是我聞』の中に書いていることだが、太宰は志賀に『斜陽』を取り上げられて、なぜそこまで逆上したのだろうか。
その座談会で、志賀が太宰を評した、
【もう少し真面目にやつたらよかろうといふ気がするね】
の一言に、太宰は「見透かされた」と、ハッとしたのではないかと私は考えている。
それは例えば、『人間失格』の中で、葉蔵が己の計算づくの道化を竹一に見破られたときの狼狽と同じようなものではなかったのか。
太宰にとって、『斜陽』は思い入れの深い特別の作品であった筈だが、太宰は、『斜陽』の作品としての出来には満足していなかったのではないだろうか。
おそらく、太宰には、『斜陽』が他人の日記の引き写しであることの引け目があった筈だ。
太宰は『斜陽』の中盤以降、自分と太田静子の関係を描くことによって、「作家としての良心」を示したかのようにも見えるけれど、己がしでかした世間から後ろ指を指されるような醜聞を、小説の虚実の間に塗り込めてしまったようにも読めるし、後付けで「芸術のためだった」と言い訳をしているようにも感じられる。
だから私は、『斜陽』を書いた太宰の「作家の態度」について、志賀が【もう少し真面目にやつたらよかろうといふ気がするね】【ポーズが気になるな】とした直感的な指摘には、非常に同感できるところがある。
太宰は、自分でも『斜陽』に対して、ある種の「やましさ」を持っていたのではないか。
その「やましさ」は太宰がいかに否定しようとしても、太宰の心のどこかに常に引っ掛かっていたのではないか?
そして、その「やましさ」をこともあろうに志賀に衝かれたと感じて、太宰は逆上したのではないのか――。
【民主主義の本質は、それは人によつていろいろに言へるだらうが、私は、「人間は人間に服従しない」あるひは「人間は人間を征服出来ない、つまり、家来にすることが出来ない」それが民主主義の発祥の思想だと考えへてゐる】
これは『如是我聞』の一節である。
誠にもって正論であり本質を衝いた言葉だと思うのだが、太宰が本当にこう考えていたなら、『如是我聞』なる手記は生まれなかった筈ではないのか――。