第17話 第一の欺瞞『如是我聞』【9】

文字数 1,115文字

【9】

 私にはその手紙の言葉が、「詩人の(うた)」だとは到底思えない。
 それは、文学を目指しながら道半ばで死を覚悟した若者が、もう二度と作品を書けなくなることを自覚した血を吐くような遺言ではないか。

 そのような遺言を書き残した決死の覚悟の兵士に対して、【一流の詩人の資格を得た】という言葉を送る太宰の感覚に、私はどうしても違和感を覚えてしまう。

 私には、太宰のその言葉が、芸術と人命を同等にみなしているように思えてならないし、そこに太宰の後ろめたさと言い訳が潜んでいるように感じられてならない。

 戦地からの後輩の手紙に対して太宰はこう結ぶ。

【純粋の献身を、人の世の最も美しいものとしてあこがれ努力してゐる事に於いては、兵士も、また詩人も、あるひは私のやうな(ちまた)の作家も、違つたところは無いのである。】

 美しい文章である。
 しかし、私はこの文章にも違和感を覚えてしまう。
 祖国の存亡のために我が命を差し出すという献身以上の献身が存在するだろうか。

 私にはこの一文が、「太宰の自己弁護」だとしか受け取れない。
 それは、この言葉と太宰の言動が必ずしも一致していないからだ。
 自らを「巷の作家」と称した太宰だが、その彼が、この時期どのような献身にあこがれ、どんな努力をしたのだろうか。

 日米開戦直後『十二月八日』を書き上げた後で、太田静子を東京に呼び出して、彼女に擬似恋愛を仕掛け逢瀬を重ねたのは一体誰なのか。

 昭和十九年一月、太田静子の住む下曽我を訪ねて一夜を共にしたのは一体誰なのか。

 その時は肉体関係がなかったというのが定説だが、戦地で数多くの兵士が命を失っている時に、太宰はいったい何をしていたのだろうか。

 太宰がいくら、「純粋の献身へのあこがれのため」、「芸術のため」と言い繕ってみても、戦地の兵士から見れば、「命の心配のない内地にいて女と乳繰り合っているだけだ」と思われても仕方のない行動ではないか。

 しかも、『散華』が発表されたのは昭和十九年、雑誌の三月号だという。
 三月号は通常一月下旬から二月初旬に発行される。
 ということは、太宰は、太田静子を下曽我に訪ねて、彼女の日記を手に入れるために恋の駆け引きをしていた一月前後に、この『散華』を書いていたとも推測される。
 自分が内地でそんな行動をとっていた頃に、太宰は、

【純粋の献身を、人の世の最も美しいものとしてあこがれ努力してゐる事に於いては、兵士も、また詩人も、あるひは私のやうな巷の作家も、違つたところは無いのである。】

 などと、臆面もなく書いているのである。
 そう考えれば、太宰のこの文章は、戦地において己の命を差し出し命を懸けていた人間に対する冒涜のようにも思えてならない。
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