第23話 第一の欺瞞『如是我聞』【15】
文字数 1,166文字
【15】
太宰が『如是我聞』に至る事の始まりは、彼の昭和十九年の作品『津軽』だろう。
まず、太宰が『津軽』の中で志賀の作品を批判する。
戦後、それを受けるようにして志賀が座談会の中で、太宰の『斜陽』を『もう少し真面目にやつたらよかろうという気がするね』と応酬する。
それを知った太宰が逆上し、『如是我聞』において、前項で前述したような痛烈な志賀批判を繰り広げる、という時系列である。
ちなみに、太宰が『津軽』において志賀を批判したことについては、それ以前に、志賀が太宰を「傲慢なところがあるね」と評したことに対する意趣返しであるという説があるが、志賀のその発言は当時公表されたものではない。
作品の中で公に批判したのは、太宰の方が先である。
『津軽』の中で、太宰は、蟹田における地元の文学ファンとの座談の席で、
【日本の或る五十年配の作家】の仕事を、
【そんなによくはない、とつい、うつかり答へてしまつたのである。】
と口火を切り、次第にこき下ろしていく。
数えてみると原稿用紙三枚分にも渡って志賀作品への「悪口」が書かれているのである。
他の作家の批判などという、およそ、紀行文にはそぐわないものを、太宰は、敢えてそこに挿入しているのだから余程書かずにはいられなかったのであろう。
その一節も『如是我聞』に負けず劣らず激烈である――。
【その作家の作品の大半をまた読み直してみて、うまいなあ、とは思つたが、格別、趣味の高尚は感じなかつた。かへつて、エゲツナイところに、この作家の強みがあるのではあるまいかと思つたくらゐであつた。書かれてある世界もケチな小市民の意味も無く気取つた一喜一憂である。作品の主人公は、自分の生き方に就いてときどき「良心的」な反省をするが、そんな箇所は特に古くさく、こんなイヤミな反省ならば、しないはうがよいと思はれるくらゐで、「文学的」な青臭さから離れようとして、かへつて、それにはまつてしまつてゐるやうなミミツチイものが感ぜられた。ユウモアを心掛けてゐるらしい箇所も、意外なほどたくさんあつたが、自分を投げ出し切れないものがあるのか、つまらぬ神経が一本ビクビク生きてゐるので読者は素直に笑へない。貴族的、といふ幼い批評を耳にした事もあつたが、とんでもない事で、それこそ贔屓の引きだふしである。】
長い引用になったが、念のために言わせて貰えば、これは『津軽』の中の一節であって、決して『如是我聞』の中のものではない。
こうしてここだけ抜き出してみれば、この一節は、私達が惹起する『津軽』のイメージにはおよそ似つかわしくないし、まるで『如是我聞』の中の文章のようにも感じられる。
『如是我聞』は、『津軽』の四年後に書かれたものである。
太宰は四年もの間、鬱々と志賀とその作品の批判を胸に抱いていたのだろうか?
太宰が『如是我聞』に至る事の始まりは、彼の昭和十九年の作品『津軽』だろう。
まず、太宰が『津軽』の中で志賀の作品を批判する。
戦後、それを受けるようにして志賀が座談会の中で、太宰の『斜陽』を『もう少し真面目にやつたらよかろうという気がするね』と応酬する。
それを知った太宰が逆上し、『如是我聞』において、前項で前述したような痛烈な志賀批判を繰り広げる、という時系列である。
ちなみに、太宰が『津軽』において志賀を批判したことについては、それ以前に、志賀が太宰を「傲慢なところがあるね」と評したことに対する意趣返しであるという説があるが、志賀のその発言は当時公表されたものではない。
作品の中で公に批判したのは、太宰の方が先である。
『津軽』の中で、太宰は、蟹田における地元の文学ファンとの座談の席で、
【日本の或る五十年配の作家】の仕事を、
【そんなによくはない、とつい、うつかり答へてしまつたのである。】
と口火を切り、次第にこき下ろしていく。
数えてみると原稿用紙三枚分にも渡って志賀作品への「悪口」が書かれているのである。
他の作家の批判などという、およそ、紀行文にはそぐわないものを、太宰は、敢えてそこに挿入しているのだから余程書かずにはいられなかったのであろう。
その一節も『如是我聞』に負けず劣らず激烈である――。
【その作家の作品の大半をまた読み直してみて、うまいなあ、とは思つたが、格別、趣味の高尚は感じなかつた。かへつて、エゲツナイところに、この作家の強みがあるのではあるまいかと思つたくらゐであつた。書かれてある世界もケチな小市民の意味も無く気取つた一喜一憂である。作品の主人公は、自分の生き方に就いてときどき「良心的」な反省をするが、そんな箇所は特に古くさく、こんなイヤミな反省ならば、しないはうがよいと思はれるくらゐで、「文学的」な青臭さから離れようとして、かへつて、それにはまつてしまつてゐるやうなミミツチイものが感ぜられた。ユウモアを心掛けてゐるらしい箇所も、意外なほどたくさんあつたが、自分を投げ出し切れないものがあるのか、つまらぬ神経が一本ビクビク生きてゐるので読者は素直に笑へない。貴族的、といふ幼い批評を耳にした事もあつたが、とんでもない事で、それこそ贔屓の引きだふしである。】
長い引用になったが、念のために言わせて貰えば、これは『津軽』の中の一節であって、決して『如是我聞』の中のものではない。
こうしてここだけ抜き出してみれば、この一節は、私達が惹起する『津軽』のイメージにはおよそ似つかわしくないし、まるで『如是我聞』の中の文章のようにも感じられる。
『如是我聞』は、『津軽』の四年後に書かれたものである。
太宰は四年もの間、鬱々と志賀とその作品の批判を胸に抱いていたのだろうか?