第55話 第二の欺瞞『韜晦の仮面』【19】

文字数 1,081文字

【19】

 太宰の『十五年間』から再び引用する。

【結局、私がこの旅行で見つけたものは「津軽のつたなさ」といふものであつた。稚拙さである。不器用さである。文化の表現方法の無い戸惑いである。私はまた、自身にもそれを感じた。けれども同時に私は、それに健康を感じた。】

 【津軽のつたなさ】という太宰のこの名文句にも、私は、ある種の欺瞞が含まれていると疑ってしまう。
 私は、太宰が故郷津軽を指して「つたなさ」「稚拙さ」「不器用さ」「戸惑い」と並べた立てた言葉は、太宰自身の免罪符ではないかと疑っている。
 太宰が並べて見せたこれらの言葉の中には「素朴さ」や「純真さ」という要素は含まれていても、「狡猾さ」や「計算高さ」という要素は含まれていない。
 太宰は故郷津軽を「素朴・純真」と表現し、自分をそれに重ねてみせている。
 しかし、私は一章において、太宰には、したたかな「狡猾さ」や「計算高さ」があったのではないかと推論して、それを批判した。
 私には、太宰の『十五年間』という作品が、太宰の自己弁護だらけの手記のように思えてならないのだ――。

 太宰が心密かに誇っている生家は、商業と貸金業を生業とし、それによって小作農を搾取した結果財を成した家系であり、農家ではないにも関わらず、『十五年間』には、次のような一節が出てくる。

【もうかうなつたら、最後までねばつて小説を書いて行かなければ、ウソだと思つた。それはもう理屈ではなかつた。百姓の糞意地である。】

【私は、やはり、「文化」といふものを全然知らない。頭の悪い津軽の百姓でしかないのかも知れない。(中略)私はこれからこそ、この田舎者の要領の悪さ、稚拙さ、のみ込みの鈍さ、単純な疑問でもつて、押し通してみたいと思つてゐる。いまの私が、自身にたよるところがあるとすれば、ただその「津軽の百姓」の一点である。】

 そして、そうした要素をまとめて、こう表現してみせる。

【結局、私がこの旅行で見つけたものは「津軽のつたなさ」といふものであつた。稚拙さである。不器用さである。文化の表現方法の無い戸惑いである。私はまた、自身にもそれを感じた。】

 しかし、太宰のこのような「百姓観」は、農家や農民を知らない都会人から見たステレオタイプとなんら変わらない。
 太宰は「津軽の百姓」も「津軽の百姓の生活」も判っていないし、こんな紋切り型の「百姓観」なら、なにもわざわざ太宰が「津軽人」を自称してまで言及する必要もないではないか。
 私には、太宰が、ただ自身の言い訳のために、自分にとって都合がいいように「津軽の百姓」を詐称しているようにしか思えないのだ。
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