第57話 第二の欺瞞『韜晦の仮面』【21】

文字数 1,628文字

【21】

 私は先にこう述べた。

『津軽を指して「つたなさ」「稚拙さ」「不器用さ」「戸惑い」と太宰が並べた言葉は、太宰自身の免罪符ではないかと思うのだ。太宰が並べて見せたこれらの言葉の中には「素朴さ」や「純真さ」という要素は含まれていても、「狡猾さ」とか「計算高さ」という要素は含まれていない。太宰は故郷津軽を「素朴・純真」と表現し、自分をそれに重ねてみせている。』

 そして私はこう続けた。

『しかし、太宰のこのような「百姓観」は、農家や農民を知らない都会人から見たステレオタイプとなんら変わらない。太宰は「津軽の百姓」も「津軽の百姓の生活」も判っていないし、こんな紋切り型の「百姓観」なら、なにもわざわざ太宰が「津軽人」を自称してまで言及する必要もないではないか。』と。

 では、本当の百姓の姿とはどんなものなのだろうか。
 それを端的に表わしているものがあったのでここに引用させてもらう。

【こいつはいいや! やい! おめえ達、いってい百姓を何だと思ってたか? 笑わせちゃいけねぇや。百姓くらい悪ズレした生き物はねえんだぜ。米出せっちゃ、ねえ。麦出せっちゃ、ねえ。何もかんも、ねえっちゅうんだ。フンッ! ところがあるんだ。何だってあるんだ。床下ひっぺがして掘ってみな。それでなかったら納屋の隅だ。出てくる出てくる。瓶に入った米、塩、豆、酒、ハッハー、アッハッハー。ケッ! 正直面してペコペコ頭下げて嘘をつく。何でもごまかす。戦さが終わったとなりゃ、すぐ竹槍作って落武者狩りだ。よく聞きな。百姓ってのはな、けちんぼで、ずるくて、泣き虫で、意地悪で、間抜けで、人殺しだ。ちきしょうめ! くやしくって涙が出らあ。だがな! こんなケダモノ作りやがったのは一体誰だ! おめえ達だよ。侍だってんだよ。ばかやろ、ちくしょう。戦さになりゃ、村焼く、田畑ふん潰す、食い物は取り上げる、人夫にはこき使う、女を犯す、手向かえば殺す。一体百姓はどうしたらいいんだ。百姓はどうしたらいいんだ。ちくしょう、ちくしょう、ちくしょう……】
(黒澤明『七人の侍』DVD)

 これは映画の科白(せりふ)である。
 三船敏郎一世一代の迫真の演技による長科白である。
 世界映画史に残る日本映画の傑作『七人の侍』の中で、百姓の孤児であった自身の生い立ちを隠している菊千代という名の贋侍が、感情を爆発させて吐く言葉なのである。
 私は、この科白こそが名作『七人の侍』のテーマであるといっても過言ではないと思っている。 
 
【私は所謂純粋の津軽の百姓として生まれ、】

  と書いた太宰だが、所詮「自称百姓」の彼は、黒澤が映画で描いたような本当の百姓の姿はとうとう書けずじまいだった。
 太宰はなぜ「本当の百姓の姿」が書けなかったのか。それは太宰が百姓ではないからである。
 百姓ではないのに百姓を詐称したからである。

 では、なぜ太宰は戦後になって突然、百姓を詐称したのだろか。
 その疑問に対するヒントは、太宰が『十五年間』の最後に記した、

【まつたく新しい思潮の台頭を待望する。それを言ひ出すには、何よりもまず、「勇気」を要する。私の今夢想する境涯は、フランスのモラリストたちの感覚を基調とし、その倫理の儀表を天皇に置き、我等の生活は自給自足のアナキズム風の桃源である。】

 という太宰の言葉である――。

 百姓・農民、それは、古今東西どの時代の変革期においても、その存在は排除されることなく、それを名乗れば「免罪符」となり得るからである。
 極端な、しかも過激な例では、カンボジアのポルポト政権下で起きた、農民を除く、知識層、知的産業従事者の粛清と大虐殺が挙げられるだろう。
 どんな革命政権、革命勢力にも、農民の存在は不可欠である。
 そして、知識階級は危険分子となる邪魔な存在なのだ。

 日本の戦後の混乱期、知識人たちは、自分の立ち位置を必死で模索したはずだ。
 そして太宰は、安易に手近にあった「百姓」を名乗ったのだ――。
 私はそう感じている。
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