第5話 序章【もう一つの遺書】【3】
文字数 1,051文字
【3】
そして……、自分以外の太宰の愛人太田静子に、太宰の子が出来たことを知った富栄は、その瞬間まさにユダになったのではないのか。
「そのとき富栄は、太宰が描いたイスカリオテのユダの心境になったのだ」私にはそう思えてならない――。
【だけれども、私は、口惜しいのです。胸を掻きむしりたいほど、悔しかったのです。なんのわけだか、わかりませぬ。ああ、ジェラシイといふのは、なんてやりきれない悪徳だ。私がこんなに、命を捨てるほどの思ひであの人を慕ひ、けふまで付き従つて来たのに、私には一つの優しい言葉も下さらず、かへつてあんな賤しい百姓女の身の上を、御頬を染めて迄かばつておやりなさつた。ああ、やっぱり、あの人はだらしない。ヤキがまはつた。もう、あの人には見込みがない。凡夫だ。ただの人だ。死んだって惜しくはない。さう思つたら私は、ふいと恐ろしいことを考へるようになりました。悪魔に魅こまれたのかも知れませぬ。その時以来、あの人を、いつそ私の手で殺してあげようと思ひました。いづれは殺されるお方に違ひない。またあの人だつて、無理に自分を殺させるやうに仕向けているみたいな様子が、ちらちら見える。私の手で殺してあげる。他人の手で殺させたくはない。あの人を殺して私も死ぬ。】
もう少し『駆け込み訴へ』の一節を抜き出してみよう。
【私は、ただ、あの人から離れたくないのだ。ただ、あの人の傍にいて、あの人の声を聞き、あの人の姿を眺めて居ればそれでよいのだ。さうして、出来ればあの人に説教など止してもらひ、私とたつた二人きりで一生永く生きていてもらいたいのだ。あああ、さうなつたら! 私はどんなに仕合せだらう。】
【私はあの人を愛している。あの人が死ねば、私も一緒に死ぬのだ。あの人は、誰のものでもない。私のものだ。あの人を他人に手渡すくらいなら、手渡すまへに、私はあの人を殺してあげる。父を捨て、母を捨て、生まれた土地を捨てて、私はけふ迄、あの人についてきたのだ。】
まるで当時の富栄の心境を書き綴った手記のようにも読めるが、これらの一節は決して山崎富栄の日記や遺書ではない。
情死事件の九年前に、太宰が妻美智子に口述筆記させた『駆け込み訴へ』という作品の中の一節なのだ。
もちろんその頃、山崎富栄と太宰は出会ってさえいない。
「太宰は、九年後に出会い、死出の旅の道連れとなる愛人の、その心中を綴った遺書ともいえるような一文を、誰あろう自分の妻に口述筆記させていた……」
こう考えて、私はこの自分の思いつきにゾッとした。
そして……、自分以外の太宰の愛人太田静子に、太宰の子が出来たことを知った富栄は、その瞬間まさにユダになったのではないのか。
「そのとき富栄は、太宰が描いたイスカリオテのユダの心境になったのだ」私にはそう思えてならない――。
【だけれども、私は、口惜しいのです。胸を掻きむしりたいほど、悔しかったのです。なんのわけだか、わかりませぬ。ああ、ジェラシイといふのは、なんてやりきれない悪徳だ。私がこんなに、命を捨てるほどの思ひであの人を慕ひ、けふまで付き従つて来たのに、私には一つの優しい言葉も下さらず、かへつてあんな賤しい百姓女の身の上を、御頬を染めて迄かばつておやりなさつた。ああ、やっぱり、あの人はだらしない。ヤキがまはつた。もう、あの人には見込みがない。凡夫だ。ただの人だ。死んだって惜しくはない。さう思つたら私は、ふいと恐ろしいことを考へるようになりました。悪魔に魅こまれたのかも知れませぬ。その時以来、あの人を、いつそ私の手で殺してあげようと思ひました。いづれは殺されるお方に違ひない。またあの人だつて、無理に自分を殺させるやうに仕向けているみたいな様子が、ちらちら見える。私の手で殺してあげる。他人の手で殺させたくはない。あの人を殺して私も死ぬ。】
もう少し『駆け込み訴へ』の一節を抜き出してみよう。
【私は、ただ、あの人から離れたくないのだ。ただ、あの人の傍にいて、あの人の声を聞き、あの人の姿を眺めて居ればそれでよいのだ。さうして、出来ればあの人に説教など止してもらひ、私とたつた二人きりで一生永く生きていてもらいたいのだ。あああ、さうなつたら! 私はどんなに仕合せだらう。】
【私はあの人を愛している。あの人が死ねば、私も一緒に死ぬのだ。あの人は、誰のものでもない。私のものだ。あの人を他人に手渡すくらいなら、手渡すまへに、私はあの人を殺してあげる。父を捨て、母を捨て、生まれた土地を捨てて、私はけふ迄、あの人についてきたのだ。】
まるで当時の富栄の心境を書き綴った手記のようにも読めるが、これらの一節は決して山崎富栄の日記や遺書ではない。
情死事件の九年前に、太宰が妻美智子に口述筆記させた『駆け込み訴へ』という作品の中の一節なのだ。
もちろんその頃、山崎富栄と太宰は出会ってさえいない。
「太宰は、九年後に出会い、死出の旅の道連れとなる愛人の、その心中を綴った遺書ともいえるような一文を、誰あろう自分の妻に口述筆記させていた……」
こう考えて、私はこの自分の思いつきにゾッとした。