第20話 第一の欺瞞『如是我聞』【12】

文字数 1,592文字

【12】

 『如是我聞』(昭和二十三年)について一番不思議に思うのは、「なぜ太宰はあのような混乱した手記を世に出したのだろうか」という素朴な疑問である。

 『斜陽』(昭和二十二年)が大ヒットし、人気作家としてようやく世に認められはじめた太宰が、まるで気が狂ったかとさえ思えるような、無礼傲慢な暴言の数々を吐き散らかした、あのような作品を発表したことにどんな意味があったのだろうと、私は長い間疑問に思っていた。

 太宰は『如是我聞』の最後に、

【売り言葉に買い言葉、いくらでも書くつもり】

 と捨て台詞を吐いたが、その啖呵(たんか)が遺言となった。
 最後の最後までその矛先の対象となったのが、

【このまうろくぶりには、噴き出すほかはない。作家も、かうなっては、もうダメである。】

 と(あげつら)われた志賀直哉だった。
 太宰の筆に掛かればこの文壇の大御所も、

【薄化粧したスポーツマン。弱いものいぢめ。エゴイスト。】

【植木屋のおやぢだ。腹掛丼(はらがけどんぶり)がよく似合ふだろう。】

【道楽者、いや、少し不良じみて、骨組み頑丈、顔が大きく眉が太く、自身で裸になつて角力をとり、その力の強さがまた自慢らしく、何でも勝ちやいいんだとうそぶき、】

 と散々な書かれ方である。

 太宰は『如是我聞』の三の最後で、

【これを書き終えたとき、私は偶然に、ある雑誌の速記録を読んだ。それによると、志賀直哉というひとが、「二、三日前に太宰君の『犯人』といふのを読んだけれども、実につまらないと思つたね。始めからわかつてるんだから、しまひを読まなくたつて落ちはわかつてるし」と、おつしやつて……】

 と、志賀が自身の作品を(けな)したことを取り上げ、次のように反論している。

【作品の最後の一行に於いて読者に背負い投げを食わせるのは、あまりいい味のものでもなかろう。所謂「落ち」を、ひた隠しに隠して、にゆつと出る、それを、並々ならぬ才能と看做(みな)す先輩はあはれむべき(かな)、芸術は試合でないのである。奉仕である。読むものをして傷つけまいとする奉仕である。(中略)「落ち」を避けて、しかし、その暗示と興奮で書いてきたのはおまへぢやないか。】

 そして後半ではこうも書いている。

【君について、うんざりしていることは、もう一つある。それは芥川の苦悩がまるで解つていないことである。】

 と――。

  志賀は芥川の死後、昭和二年九月に芥川への追悼文ともいえる『沓掛にて』を発表している。この中で志賀は芥川の作品スタイルについてこう書いている。

【一体芥川君のものには仕舞いで読者に背負い投げを食らわすようなものがあった。これは読後の感じからいっても好きでなく、作品の上からいえば損だと思うといった。気質の違いかもしれないが、私は夏目さんの物でも作者にははっきりある事をいつまでも読者に隠し、釣っていく所は、どうも好きになれなかつた。私は無遠慮にただ、自分の好みを云っていたかもしれないが、芥川君はそれらを素直に受け入れてくれた。そして、「芸術というものが本統に分かっていないんです」といった。】
(以降引用する志賀の文章は、引用資料によって外現代仮名遣いと旧仮名遣いの場合がある)

 これらは、志賀は芥川に対して、太宰は志賀に対して、同様のことを指摘しているという偶然なのだが、芥川に心酔して作家を志した太宰が、この一文を読んでいないわけがないだろうから、偶然というよりも、これは志賀の『沓掛にて』を利用した、志賀に対する太宰の意趣返しと思えなくもない。

 つまり太宰は、志賀の『沓掛にて』における芥川への批判は、実は志賀が、【芥川の苦悩がまるで解つていない】ことから発せられたものであり、的外れなものであるという指摘をしているように読める。

 しかし、志賀に批評された当の芥川が、実は志賀の人物と作品を高く評価していることは、芥川の評論『文芸的な、余りに文芸的な』(昭和二年)にはっきりと記されている――。
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