第13話 第一の欺瞞『如是我聞』【5】
文字数 1,098文字
【5】
太宰は、
【私はこの貧しい手記の中に最も力をこめて特筆大書して置きたいやうな、何だか、そんな気がしてならないのである】
と力説している文章すら、戦後になって削除しているのだが、それら大幅な削除が、仮にGHQの検閲指導であるならば、まさに「その削除部分は戦争協力的表現部分である」とGHQからお墨付きを貰ったことになる。
そのような作品ならば、中途半端な改作などせず再版しなければいいのではないか。
「太宰が『惜別』において戦後削除した箇所は、『惜別』の本来のテーマとは関係ない部分だったから、それを削除したところで『惜別』に込められたメッセージもその価値もいささかも損なわれるものではない」このように太宰を擁護する見方がある。
なるほど一見もっともらしい理屈ではあるが、それならば、太宰はなぜ戦中においては、そのような戦争協力的表現の文章を原稿用紙三十枚にも渡って『惜別』に差し挟む必要があったのだろう。
作品の本来のテーマに無関係の文章ならば最初から書く必要がないだろうし、わざわざ書いたからには書くだけの理由があったはずだと考えるのは、私だけだろうか?
太宰は、『惜別』において、軍部の注文に応じて軍部の覚えの目出度いことを器用に書いてみせたのではないのか。
もし仮にその部分が、『惜別』という作品の本質的なテーマとは関係のない内容であったとしても、「戦時中、太宰はその部分を書いた」という事実は動かしがたい。
そのような太宰が、『如是我聞』において、自分の変節は無自覚なまま、志賀に対する本質的ではない粗捜 しを行って執拗に攻撃するのだが、その志賀は、戦時中は断筆し小説は一切執筆していない。
したがって彼は、戦後になって戦中の作品を改作・隠蔽するなどという不様 な真似は行なっていない。
志賀が開戦時から終戦時までの間、社会的に発表した文章は『シンガポール陥落』だけであり、しかも、それは小説ではない。
そのことについて、志賀の弟子筋に当たる阿川弘之の『志賀直哉』にはこう書かれている。
『十七年六月、「竜頭蛇尾」と題する小品を「女性公論」の創刊号に寄せているけれど、これは二年前に書いてそのまま筺底 に蔵していたものであった。あとは終戦の年の暮れまで、お義理の序文推薦文、自著のあとがき程度の原稿以外何も執筆しなかった。したがって収入も無かった。』
(阿川弘之『志賀直哉』)
戦中の志賀にまつわるこの一節を読んで、私には【したがって収入も無かった】という点が非常に重く感じられるのである。
それでも志賀は書かなかったのだ。
戦時中の志賀のこうした姿勢は作家としての一つの見識であろう。
太宰は、
【私はこの貧しい手記の中に最も力をこめて特筆大書して置きたいやうな、何だか、そんな気がしてならないのである】
と力説している文章すら、戦後になって削除しているのだが、それら大幅な削除が、仮にGHQの検閲指導であるならば、まさに「その削除部分は戦争協力的表現部分である」とGHQからお墨付きを貰ったことになる。
そのような作品ならば、中途半端な改作などせず再版しなければいいのではないか。
「太宰が『惜別』において戦後削除した箇所は、『惜別』の本来のテーマとは関係ない部分だったから、それを削除したところで『惜別』に込められたメッセージもその価値もいささかも損なわれるものではない」このように太宰を擁護する見方がある。
なるほど一見もっともらしい理屈ではあるが、それならば、太宰はなぜ戦中においては、そのような戦争協力的表現の文章を原稿用紙三十枚にも渡って『惜別』に差し挟む必要があったのだろう。
作品の本来のテーマに無関係の文章ならば最初から書く必要がないだろうし、わざわざ書いたからには書くだけの理由があったはずだと考えるのは、私だけだろうか?
太宰は、『惜別』において、軍部の注文に応じて軍部の覚えの目出度いことを器用に書いてみせたのではないのか。
もし仮にその部分が、『惜別』という作品の本質的なテーマとは関係のない内容であったとしても、「戦時中、太宰はその部分を書いた」という事実は動かしがたい。
そのような太宰が、『如是我聞』において、自分の変節は無自覚なまま、志賀に対する本質的ではない
したがって彼は、戦後になって戦中の作品を改作・隠蔽するなどという
志賀が開戦時から終戦時までの間、社会的に発表した文章は『シンガポール陥落』だけであり、しかも、それは小説ではない。
そのことについて、志賀の弟子筋に当たる阿川弘之の『志賀直哉』にはこう書かれている。
『十七年六月、「竜頭蛇尾」と題する小品を「女性公論」の創刊号に寄せているけれど、これは二年前に書いてそのまま
(阿川弘之『志賀直哉』)
戦中の志賀にまつわるこの一節を読んで、私には【したがって収入も無かった】という点が非常に重く感じられるのである。
それでも志賀は書かなかったのだ。
戦時中の志賀のこうした姿勢は作家としての一つの見識であろう。