第84話 第三の欺瞞『虚飾の傑作』【21】

文字数 961文字

【21】

 これはまるで、太宰が後に『如是我聞』で「反キリスト的な存在」とみなして批判した、「老大家や大馬鹿先生」を彷彿とさせる人物評であり、

【ただもう、お得意なんです。何せ、自分で書いた絵が自分でわからぬというふひとなのですから、他人の仕事のよさなどわかる筈が無く、いやもう、けなす事、けなす事。】

 という一節などは、『如是我聞』で太宰が志賀を批判した言葉そっくりである。

 しかし、そのように評された洋画家は、「老大家や大馬鹿先生」ように世間に対応した品行方正な生活をしているとは書かれてはおらず、

【あのひとのデカダン生活は、口では何のかのと苦しさうな事を言つてゐますけれども、その実は、馬鹿な田舎者が、かねてあこがれの都に出て、かれ自身にも意外なくらゐの成功をしたので有頂天になつて遊びまはつてるだけなんです。】

 と書かれたその姿は、当時の太宰を自虐的に指しているようにも思える。

 そのような「俗物」が上原だとして、上原が太宰の一方の分身だとしたら、もう一方の分身である直治がその「俗物」を批判したことになる。
 太宰は己の中の「俗物」を自覚し、その「俗物」を自己批判したというのか。
 そして、『斜陽』で行った自己批判を、太宰は『如是我聞』で完結しようとしたのか――。

 昭和二十三年二月、前年の『斜陽』の大ヒットを受けて、通知された多額の所得税を太宰は支払えなかった。
 十一万七千円にも及ぶ納税通知であったが、太宰は『斜陽』の印税の大半を遊興費に使い果たしていた。
(当時の公務員の初任給が二千円~四千八百円とのことで、現在の物価は当時の百倍に相当すると考えられるので、太宰の所得税は一千百七十万円と換算されようか)

 また太宰は、治子を生んだ太田静子からの度々の養育費の無心に、都度一万円を送金していた。
(これも百万円と換算されようか)
 そうした、金銭の問題に加え、自分を巡る二人の愛人の、嫉妬がらみの複雑な関係に圧迫される苦しさ。
 そして、不治の病である結核の悪化と、それに伴う創作の困難。
 この時期の太宰には、死にたくなる理由が有り余るほどあった――。

 しかし――、太宰の死の本当の訳は太宰しか知らない。
 山崎富栄でさえ知る訳がないのだ。
                                         
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