第95話 エピローグ2023【1】

文字数 1,170文字

【1】

 単純作業をする際、最近は『青空朗読』を聞くことが多い。
 その日、作品検索の中から太宰の『おさん』をみつけ出したのはまったくの偶然だった。

〈『おさん』……、どんな作品だったかな?
 ああ、たしか、浮気して心中する夫の姿を奥さんの視点で描いたやつだっけ〉

 『おさん』と云う作品についての、私の認識はその程度だった。
 太宰信者の頃でさえ、私はその作品をきちんと読み込んではいなかったのだ。おそらくざっと斜め読みして済ませていた作品なのだ。
 だからこそ、興味が湧いた――。

〈ああ、そうそう、奥さんのモノローグだ。
 夫は、まるでたましいの抜けた人みたいに、足音のない歩き方で家を抜け出すんだよな……〉
 聞き始めて、薄れていた記憶が少しずつ甦ってきた。
 しかし、しばらくすると私の記憶からすっぽりと抜け落ちている文章が朗読され始めた。

 *

【「ああ、そうか、きょうは巴里祭だ。」
 とひとりごとのようにおっしゃって、幽かすかに笑い、それから、マサ子と私に半々に言い聞かせるように、
「七月十四日、この日はね、革命、……」
 と言いかけて、ふっと言葉がとぎれて、見ると、夫は口をゆがめ、眼に涙が光って、泣きたいのをこらえている顔でした。それから、ほとんど涙声になって、
「バスチーユのね、牢獄を攻撃してね、民衆がね、あちらからもこちらからも立ち上って、それ以来、フランスの、春こうろうの花の宴が永遠に、永遠にだよ、永遠に失われる事になったのだけどね、でも、破壊しなければいけなかったんだ、永遠に新秩序の、新道徳の再建が出来ない事がわかっていながらも、それでも、破壊しなければいけなかったんだ、革命いまだ成らず、と孫文が言って死んだそうだけれども、革命の完成というものは、永遠に出来ない事かも知れない、しかし、それでも革命を起さなければいけないんだ、革命の本質というものはそんな具合いに、かなしくて、美しいものなんだ、そんな事をしたって何になると言ったって、そのかなしさと、美しさと、それから、愛、……」】

 これは――、ある夏の日、【どろぼうのような日陰者くさい顔つきをして、こそこそやって来て、】愛人の元から帰宅した夫を妻は優しく迎えて、ひさしぶりの一家団欒。卓袱台囲んで家族で昼食のその席に、お隣の家のラジオからフランス国歌が流れ始め、それ聞きつけた夫が唐突に語り出す科白なのである。
 それはまるで、それまでの話の流れをぶった切るように唐突に、無理やり、こじつけて挿入したような文章であって、流れるような流暢な朗読で聞いていても、違和感しかないパートだった。

 記憶になかったのは、おそらく二十歳そこそこだった頃の私には、まったく興味のなかった部分だったからだろう。
 しかし、還暦を過ぎてこの手記を書いている私にとっては、耳を疑うような衝撃的な文章だった。

 

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