第65話 第三の欺瞞『虚飾の傑作』【2】

文字数 1,264文字

【2】

 『斜陽』は、敗戦後の「一億総懺悔」、その反動としての「一億総被害者」とでも言うような特殊な時代背景の中で、悲劇を好む日本人の琴線に触れたからこそ、あれだけのベストセラーになったのであり、それは、とりもなおさず『斜陽』が日本人の古い価値観の上に成立した作品であったと私は感じているし、太宰にとって『斜陽』は、自己評価と他者評価が必ずしも合致した作品ではないように思えるのだ。

 私は、『斜陽』を読んで戸惑う。読んでいて気持ちの調子が取れず、物語に没入できない。
 この作品を読んでロマンチシズムを感じればいいのか、リアリズムを感じればいいのか、戸惑うのである。
 結局ロマンチシズムもリアリズムも中途半端なのだ。
 太田静子の日記を基にした前半は、これまでの太宰の作品とは違った作風で、次第に感情移入もできるのだけれど、直治の日記が出てくるあたりで、次第にその調子が崩される。
 崩すのも手法の一つだろうが、そこにはもろに太宰自身が顔を出して、お決まりの観念論をこれでもかと書き連ねる。

 直治の日記「夕顔日誌」に、太宰はどのような意味を持たせたかったのだろうか? 
 私がそれを読んで感じるのは、太宰の思考回路と表現方法が十数年前から進歩していないということだけだ。
 「太宰さん、『道化の華』から十三年も経っているのに、まだそんな小説を書きたいんですか」と言いたくなる。

 私にはその(くだり)が、火の通っていない生焼けの料理に感じられてしまう。
 美味しくない。
 上質の料理に異物が混入しているような違和感があって、先に進むのが躊躇されるのだ。
 なぜ太宰はこのように執拗に、自分の思想や観念を生のままで曝け出してしまうのか。
 そこに太宰の甘さと弱さを感じるのは私だけだろうか。

 そして、かず子の手紙以降は、一挙に太宰ワールドに突き進んでいく。
 その主題は『斜陽』の直前に発表された『ヴィヨンの妻』や『父』から引き続いているものなのだろうが、私にはそれが、「太宰の言い訳」のようにしか読めない。

 太宰は『斜陽』を書いていながら、「斜陽」の後に来る「暁」を本当に想っていたのだろうか。
 どう読んでみても私にはそう思えない。そこには現実に起こった出来事に困惑した太宰がいるだけだ。
 『斜陽』が、「斜陽の果てにある夜明け」という「再生」を主題にした小説なのであれば、新しい命の芽生えに対する「喜びや清新さ」をもっともっと描くべきではなかったのか。

 太宰は『斜陽』の結末を、かず子の自殺で終わろうとして「かず子の遺書」を書いていたとも伝えられている。
 もしそれが事実なら、太宰は太田静子の懐妊を知り、「再生」を意図して『斜陽』の終盤を書き換えたことになる。

 そう思って読めば、『斜陽』のラストシーンは、太宰から太田静子とその子に宛てたメッセージだと言えるのかもしれない。
 しかし、それなら尚のこと主人公かず子には、観念論ではない、沸き上がるような女性の本能的な喜びを、命を育む女性の強さと逞しさを、もっとたくさん語らせるべきだったのではないだろうか――。
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