第6話 序章【もう一つの遺書】【4】

文字数 910文字

【4】

 富栄が、太田静子と太宰の関係を知った十一月十六日の日記(昭和二十二年)には、こう記されている。

【 “修治さん、私達は死ぬのね” “子供を産みたい” “やっぱり、私は敗け”
(敗けなんて、書きたくないんだけど、修治さん、あなたが書かせたのよ。死にたいくらいのくやしさで、涙が一ぱいです。でも、あなたのために、そしてご一緒に……。)
 救って下さい。教えて下さい。主よ御意ならば我を潔くなし給うを得ん。我が意なり、潔くなれ】
(山崎富栄『太宰治との愛と死のノート』)

 そして、彼女の五月二十二日付けの日記(昭和二十三年)には、心中事件直前の富栄の心境がしっかりと記されていた。

【私ひとりきりなのだ。修治さん、結局は、女は自分が最後の女であれば……と願っているのですね。頬を打ち合い、唇をかみ合い…… 和解も喧嘩も最初から私達二人の間にはなかったのね。
 私はあなたの“乳母の竹”やであり、とみえであり、そして姉にもなり、“サッちゃん”ともなる。離れますものか、私にもプライドがあります。】(同)

 当時の富栄が、九年前『駆け込み訴へ』で自分が描いたユダとまさに同じような心境になっていたことに、太宰は気付いていただろうか……。
 気付いていたからこそ何もかも承知の上で、「富栄が望むなら」と、彼を永遠に我がものとするため一気に心中に走った富栄に我が身を任せたのだろうか?

 喀血し、血痰を喉に詰まらせて苦しむ太宰のその血痰を、自らの口で吸い取った富栄である。
 それは、当時、不治の病とされていた結核の感染をも恐れない、無償の愛の行為と言えるだろう。
 病まで含めて、太宰と一体となりたかった彼女は、二人の恋の行き着く先を見据えていた筈だ。
 おそらく、太宰もそれを理解していただろう。
 太宰ならずとも、不治の病の身にあって、このような献身を捧げられたなら、「我が身をおまえの好きなようにしてくれ」と考えてもおかしくはない。

 昭和二十三年六月十三日、入水当日の日記の一節である。

【修治さんは肺結核で左の胸に二度目の水が溜り、このごろでは痛い痛いと仰言るの、もうだめなのです。
 みんなしていじめ殺すのです。
 いつも泣いていました。】(同)
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