第74話 第三の欺瞞『虚飾の傑作』【11】
文字数 1,359文字
【11】
これは妻美智子の『回想の太宰治』の一節である。
文中の『前の年の三月末』とは昭和二十二年三月のことであるが、この時期は、太宰が太田静子と愛人関係となり、彼女から日記を手に入れ、『斜陽』の執筆を開始した時期にあたる。
そしてまたその一方で、太宰は一人の女性と出会うのである。
それが、山崎富栄である。
美智子によれば、太宰はその頃まではぴんとしていたのだ。
美智子は【その姿勢が崩れ始めたのは五月頃からである。】と、太宰の変調をはっきりと書き記している。
その「昭和二十二年五月」に太宰に何があったのか。
実は太宰の身辺には大きな変化があったのだ。
昭和二十二年五月、太宰は二ヶ月前に知り合った山崎富栄との関係を次第に深め、抜き差しならない第一歩を踏み出していた。
【新しい仕事部屋は富栄が見つけた。(中略)離れの八畳間を借りたのが五月二十一日。その夜の出来事を富栄は日記に書かずにいられなかった。
「至高無二の人から、女として最高の喜びを与えられた私は幸せです」】
(猪瀬直樹『ピカレスク』)
この時期、太宰と富栄の事実上の愛人関係が始まったのだ。
太宰は、この『斜陽』執筆中の時期に、太田静子の妊娠を告げられ、その直後に山崎富栄とも愛人関係に陥っている。
太宰とこの二人の女性との関係が、『斜陽』の創作過程とその結果に重大な影響を及ぼしたと考えて間違いないようだ。
そうした事実を知り、私の脳裏には、『太田静子の妊娠が『斜陽』の内容に変化を与えたように、山崎富栄の出現が『斜陽』に影響を及ぼしているのではないのか?』という考えが浮かんだ。
そしてそれが、前述した、『かず子のキャラクターについて、第四章の「かず子の手紙」あたりから徐々に変調し、第六章を境にして、それ以前とそれ以後のかず子はまるで別人のようになっていると感じるのは私だけだろうか?』ということの要因であろうと私は憶測しているのである。
更に憶測を逞しくすれば、『第六章以降のかず子のキャラクターには山崎富栄のそれが反映されているのではないか?』ということなのだ。
この推論のキーワードは【戦闘、開始。】という言葉なのだが、実はそれは太田静子の『斜陽日記』には存在しない言葉なのだ。
当初私は、太宰が創作した言葉だと思っていた。
しかし、それは大きな間違いだった。
驚くべきことに、それは山崎富栄の日記に書かれていた言葉だったのだ。
富栄は太宰との関係を書き記した日記を昭和二十二年三月から始めているが、その初回の三月二十七日付けの日記の最後にこう記している。
【情熱的に語る先生と、青年の真剣な御様子と、思想の確固さ。そして道理的なこと。人間としたら、そう在るべき道の数々。何か、私の一番弱いところ、真綿でそっと包んででもおいたものを、鋭利なナイフで切り開かれたような気持ちがして涙ぐんでしまった。
戦闘、開始! 覚悟をしなければならない。私は先生を敬愛する。】
(山崎富栄『太宰治との愛と死のノート』)
『斜陽』に書かれていながら、太田静子の日記には出てこない【戦闘、開始。】というフレーズ、それは、実は山崎富栄の日記の中の言葉だった。
太宰は、『斜陽』を書くために太田静子の日記のみならず、山崎富栄の日記まで利用していたのだ――。
これは妻美智子の『回想の太宰治』の一節である。
文中の『前の年の三月末』とは昭和二十二年三月のことであるが、この時期は、太宰が太田静子と愛人関係となり、彼女から日記を手に入れ、『斜陽』の執筆を開始した時期にあたる。
そしてまたその一方で、太宰は一人の女性と出会うのである。
それが、山崎富栄である。
美智子によれば、太宰はその頃まではぴんとしていたのだ。
美智子は【その姿勢が崩れ始めたのは五月頃からである。】と、太宰の変調をはっきりと書き記している。
その「昭和二十二年五月」に太宰に何があったのか。
実は太宰の身辺には大きな変化があったのだ。
昭和二十二年五月、太宰は二ヶ月前に知り合った山崎富栄との関係を次第に深め、抜き差しならない第一歩を踏み出していた。
【新しい仕事部屋は富栄が見つけた。(中略)離れの八畳間を借りたのが五月二十一日。その夜の出来事を富栄は日記に書かずにいられなかった。
「至高無二の人から、女として最高の喜びを与えられた私は幸せです」】
(猪瀬直樹『ピカレスク』)
この時期、太宰と富栄の事実上の愛人関係が始まったのだ。
太宰は、この『斜陽』執筆中の時期に、太田静子の妊娠を告げられ、その直後に山崎富栄とも愛人関係に陥っている。
太宰とこの二人の女性との関係が、『斜陽』の創作過程とその結果に重大な影響を及ぼしたと考えて間違いないようだ。
そうした事実を知り、私の脳裏には、『太田静子の妊娠が『斜陽』の内容に変化を与えたように、山崎富栄の出現が『斜陽』に影響を及ぼしているのではないのか?』という考えが浮かんだ。
そしてそれが、前述した、『かず子のキャラクターについて、第四章の「かず子の手紙」あたりから徐々に変調し、第六章を境にして、それ以前とそれ以後のかず子はまるで別人のようになっていると感じるのは私だけだろうか?』ということの要因であろうと私は憶測しているのである。
更に憶測を逞しくすれば、『第六章以降のかず子のキャラクターには山崎富栄のそれが反映されているのではないか?』ということなのだ。
この推論のキーワードは【戦闘、開始。】という言葉なのだが、実はそれは太田静子の『斜陽日記』には存在しない言葉なのだ。
当初私は、太宰が創作した言葉だと思っていた。
しかし、それは大きな間違いだった。
驚くべきことに、それは山崎富栄の日記に書かれていた言葉だったのだ。
富栄は太宰との関係を書き記した日記を昭和二十二年三月から始めているが、その初回の三月二十七日付けの日記の最後にこう記している。
【情熱的に語る先生と、青年の真剣な御様子と、思想の確固さ。そして道理的なこと。人間としたら、そう在るべき道の数々。何か、私の一番弱いところ、真綿でそっと包んででもおいたものを、鋭利なナイフで切り開かれたような気持ちがして涙ぐんでしまった。
戦闘、開始! 覚悟をしなければならない。私は先生を敬愛する。】
(山崎富栄『太宰治との愛と死のノート』)
『斜陽』に書かれていながら、太田静子の日記には出てこない【戦闘、開始。】というフレーズ、それは、実は山崎富栄の日記の中の言葉だった。
太宰は、『斜陽』を書くために太田静子の日記のみならず、山崎富栄の日記まで利用していたのだ――。