第19話 第一の欺瞞『如是我聞』【11】

文字数 1,083文字

【11】

 太宰は、雑誌『東西』昭和二十一年三月号に『返事』という一文を発表した。
 それは、『東西』の編集者から受け取った手紙に対して、太宰が実際に返信した書簡だとされている。その中で太宰は、

【私たちは程度の差はあつても、この戦争に於いて日本に味方しました。】

【はつきりいつたつていいんぢやないかしら、私たちはこの大戦争に於いて、日本に味方した。私たちは日本を愛してゐる、と。】

 などと書いているが、私にはこの文章が、太宰が戦時中に作品に図らずも書き記してしまった戦争協力的文章の存在を意識した、太宰の言い訳のように思えてならない。

 また太宰は『返事』の中で、戦時中の自分が【情報局の注意人物なのださうで】などとも書いているが、もしそれが本当なら、『惜別』の場合のように内閣情報局が主催した企画の選考に合格し執筆依嘱(いしょく)されるわけがないのではないか。

 私には、この【情報局の注意人物】の一句が、「自分は戦時政府に従って唯々諾々と戦争協力していたのではない」という太宰の言い訳めいたポーズのように思えてならない。

 また太宰は、『返事』の中で取り上げた自分の書簡を【こんな馬鹿正直な無警戒の手紙】と称したが、なぜ態々(わざわざ)こんな断り書きをしてまで世間に発表する必要があったのだろうか。
 私には、かえってその一言によって、この『返信』自体も、それを発表したことも、戦後の言論界における太宰の「戦中の己の姿勢を隠蔽するためのアリバイ作り」だったように思えてならないのだ。

 戦後、太宰は「戦争協力しなかった稀有な作家」という評価を受けはしたが、太宰が本当にそのような作家であったなら、内閣情報局と日本文学報国会による「大東亜五大宣言の五原則の文学作品化」などという企画には応募しなかっただろうし、太宰が本当に軍部に睨まれていたのなら、この競争率の高い選考に合格しなかっただろう。
 そのような企画に応募したことも合格したことも、太宰の「戦争協力的姿勢」と言えるのではないか。

【執筆希望者が多数あったのは、資料集めや調査について、紹介状、切符の入手等で便宜が与えられる上に、印税支払、用紙割当等でも、当時として大変好条件を約束されていたからであろう。】
(津島美智子『回想の太宰治』)

 「大東亜五大宣言の五原則の文学作品化」の企画について、太宰の妻美智子はこのように書き記しているが、太宰は戦時中に『惜別』の執筆報酬として当時の金額で千円、現在の貨幣価値で五百万円から六百万円の金額を得ている。
 言い換えればそれは、戦後になって削除した原稿用紙三十枚分の報酬だとも言えるのではないだろうか――。
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