第59話 第二の欺瞞『韜晦の仮面』【23】

文字数 870文字

【23】

 屋敷が大きければブルジョアというものでもないだろうが、志賀の生家は、その環境も規模も太宰の生家を遥かに凌駕するものである。
 にもかかわらず志賀は、太宰のように生家を誇りそれを喧伝するようなことはしなかった。
(それは志賀が父親を嫌い抜いていたという理由もあるが) 

 太宰は、関西に居住したこともなければ旅行したこともない。
 だから太宰には、上方文化についての下地も素養も全くない。
 その点、東京育ちでありながら奈良に長らく居住し、関西文化に親しんだ志賀とは対照的である。
 志賀が中年以降仏教文化に傾倒したのは、奈良に長年居住しその伽藍名刹に日常的に触れたことが大きいだろうが、もし太宰がそのような環境に身を置いたなら、その後の太宰の心境や作品も違ったものになり幅も広がったであろうと思われるのだが――。

 太宰は、津軽と自分を重ねてみせて【津軽のつたなさ】と形容したが、太宰は彼独特の突出した特性を、彼の場合は故郷を通して再認識しただけであり、その突出した特性とは、「頭抜けた身贔屓と世間知らず」ということであろう。

 太宰は『十五年』の中で、『津軽』の取材旅行について、

【私は、自分の血の中の純粋の津軽気質に、自信に似たものを感じて帰郷したのである。つまり私は、津軽に文化なんてものは無く、したがって津軽人の私も少しも文化人では無かつたという事を発見してせいせいしたのである。】

 と書いたけれど、太宰は何を根拠にして『自分の血の中の純粋の津軽気質』と言い切れたのだろうか。
 太宰はうれしそうに、

【津軽に文化なんてものは無く、したがって津軽人の私も少しも文化人では無かつたという事を発見してせいせいしたのである。】

 などとと書いているが、太宰が作家として気付かなければならなかったことは、こんな甘く暢気(のんき)なことではなくて、太宰は、例えば上方文化を知り王朝文化を知ることによって、もっともっと自分と自身の作品を客観的にみつめることが必要だったのではないのか。

 故郷津軽と東京の生活を経験しただけで、太宰は日本文化の何を知ったというのか――。
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