第37話 第二の欺瞞『韜晦の仮面』【1】

文字数 976文字

【1】

  私は前章で、「太宰には『斜陽』に対するうしろめたさがあったのではないか?」と書いたが、『うしろめたさが逆作用となって、痛罵になる』心理というのは、「自分の非を認めたことのない人間」「謝罪したことのない人間」に共通のものかもしれない。

 太宰のあまりにも有名なエピグラフ【選ばれてあることの恍惚と不安とふたつ我にあり】は、実は「選ばれてある人」の脆さを表わしているのだろう。
 それは、相手から己の「不安」という腫れ物を刺激されると、自分を省みるのではなく、逆上し相手が悪いと痛罵してしまう脆さである。

 そうした精神構造を端的に表わした一節を『文人悪食』の中にみつけた。

【啄木の特質は、自分が加害者でありながら被害者になる技術である。それは歌集「一握の砂」を読めばすぐにわかる。】(同)

 私はこの一節を読んで膝を叩いた。
 太宰に対して、そのままこう置き換えられるからだ。

『太宰の特質は、自分が加害者でありながら被害者になる技術である。それは最期の手記「如是我聞」を読めばすぐにわかる。』

 【自分が加害者でありながら被害者になる技術】とは、太宰を評するにまことに秀逸なフレーズではある。
 私は前章で、

『負け惜しみもここまでくれば、主客転倒するかのような観があるから立派なものである。太宰の本質を知る鍵は、まさにこの主客転倒なのだ。』

 と書いたが、私が、太宰と彼の『如是我聞』について長々と論じてきたことは、結局、この『自分が加害者でありながら被害者になる技術』というフレーズに集約されるのかもしれない。
 そしてそれは、「弱者の脅迫」という言葉と同質のものである。

 また、流浪の俳人山頭火について、『文人悪食』ではこのように書いている。
【放浪者は自分勝手である。わがままである。わがままの果ての自我を見定めて、書くから、人々は幻惑され、畏怖し、尊敬する。】(同)

 この山頭火評も太宰に通じるものがあるようにも思えるのだが、よく考えてみると、太宰は、啄木や山頭火のように「わがまま」に成りきれず、【わがままの果ての自我】を見定めることができなかった作家だったようにも思える。
 それは、太宰が、見栄や矜持を捨てて開き直ることができなかったからではないか。
 悪人を気取ってみせたが、【選ばれてあることの恍惚と不安】という脆さを捨て切れなかったからだ――。
 
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