第85話 第三の欺瞞『虚飾の傑作』【22】

文字数 1,136文字

【22】

 「太宰の文学は象徴だ」と云う人がいる。
 太宰の死は、或いは「象徴」としての彼の最後の作品なのかもしれない。
 しかし、その「象徴」を誰が読み解けるというのか。
 残された人々は、その意味をあくまでも自分の立ち位置からしか読み解けない。
 「象徴」とは読み解くものではない。
 しかし、その「象徴」を、


【なんの意味もない。まつたくなんの意味もない。空が青い。なんの意味もない。雲が流れる。なんの意味もない。それだけなのである。】

 と云う太宰の言葉を、残された人々は「比喩」を積み重ねて読み解こうとしている。

 この貧しい手記もその類のものである。
 おそらくそれは徒労なのだが、太宰の文学が彼が吹聴したほど「象徴」で書かれたものではないから、残された人々は太宰を「比喩」を積み重ねて読み解こうとしているのだろうし、それはこれからも延々と続いていくのだろう――。

 太宰はその晩年、当時日本ペンクラブ幹事長であった豊島与志雄に急接近した。
 それは太宰が生前に刊行を目指した自身の全集の解説を依頼するため、(つまり全集に箔をつけるため)だというのが定説であるが、豊島と太宰は東大仏文科の師弟関係もあり、お互いに文学的シンパシーを感じていたらしい。
 太宰は豊島の『高尾ざんげ』に豊島を礼賛した解説を書き、豊島は太宰の全集に熱烈な解説を書いた。
 そして豊島は太宰の告別式では葬儀委員長まで務めた……。
(豊島は、愛し合った太宰と富栄の遺骨は一緒の墓に葬るべしと言って譲らず、井伏鱒二と周囲が説得してそれを止めたと云われている)

 太宰の遺骸が発見されて四日後に当たる日、豊島と川端は、日本ペンクラブ役員改選の報告のため、大洞台の山荘にいる志賀を訪ねており、その時の様子を同席していた阿川弘之はこう書き記している。

【二十三年六月二十三日、四代目会長に川端康成が選出され、川端は幹事長の豊島与志雄と連れ立って、その挨拶にあらわれたのであった。(中略)
此の時豊島与志雄は五十八歳、川端康成が四十九歳、今考えると若い人のような気がするけれど、当時の私にとっては文壇の大先輩、堂々たる大家である。先生と大先輩二人が、私の淹れたアイス・ティを飲みながら歓談する様子を、脇の椅子に掛けて眺めていた。(中略)
皆が笑った。川端自身も、軽く声をたてて笑った。口をあけて笑っている川端康成の写真など、見たことが無かったから、大変珍しいものに感じた。二人とも礼儀正しく、ほとんど鞠躬如(きっきゅうじょ)とした態度をとりながら、(しか)も楽しげにくつろいでいた。】
(阿川弘之『志賀直哉』)

 三人の大家はこのように紳士然と楽しげにくつろいで歓談していた。
 その際、太宰の自死については話の端にのぼっただろうか? 
 おそらく否である――。  
 
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