第30話 第一の欺瞞『如是我聞』【22】

文字数 1,555文字

【22】

 第二に、志賀が『如是我聞』を読んでいなかったということである。
 志賀は『如是我聞』に対して極めて大人の対応をしたと言えるのだろう。
 私には、志賀は太宰の底意を見抜いていたのではないかとも思えるのだ。
 志賀は『如是我聞』に反論せず、太宰は独り相撲を取ったままで死んでしまったが、志賀はこの太宰の手記を自ら読んでもいなければ、読んで聞かされても怒るどころか、逆に読んで聞かせた娘を慰めていたのである。
 もし志賀が『如是我聞』を読んで聞かされても、あまりに荒唐無稽な言いがかりに、怒るよりも呆気にとられ、太宰を相手にする気にもならなかったのではないだろうか。
 
 また、

【おまへはいつたい、貴族だと思つてゐるのか。ブルジョアでさへないぢやないか。】

 と志賀を論った太宰だが、はたして太宰に、「貴族」について語る資格が本当にあるのだろうか。
 阿川弘之の『志賀直哉』には、志賀の細君について、

【康子は勘解由小路資承という公家華族の娘で、女子学習院の前身華族女学校に学んだ人である。その家系を辿って行くと、烏丸家や冷泉家とも濃いつながりが見られる。】(同)

 と書かれているが、志賀はその貴族中の貴族の子女であった細君のお公家言葉を何十年となく耳にしているのである。

 その事実が背景となっている志賀の『斜陽』に対する指摘は、志賀の偽らざる皮膚感覚なのだろう。
 加えて、志賀の祖父は相馬中村藩の家令であり、志賀家はれっきとした上級士族の家系である。
 父直温(なおはる)は、事業家として成功した明治大正期の正真正銘のブルジョアである。
 一方太宰の生家は、古着商から身を起こし金貸業に転身、凶作と貧困に喘ぐ農民から借金のカタに田畑の収奪を繰り返した結果大地主となった、所謂「成金地主」なのである。

 ちなみに、

【おまへはいつたい、貴族だと思つてゐるのか。ブルジョアでさへないぢやないか。】

 と太宰から無根の痛罵を受けた志賀だが、実は、昭和二十二年、宮内庁の要請により参内し陛下に拝謁しているのである。
 そして、太宰が自殺して間もない昭和二十三年七月二日には、陛下から午餐のお招きに預かり、参内している。
 そのことについて、阿川は『志賀直哉』の中で、

【昭和二十七年までの五年間を通じて十一、二回、時には殆ど毎月陛下と接していながら、直哉は宇野浩二の「御前文学談」のようなものを、生涯公にしなかった。】(同)

 と書いている。
 志賀は、陛下に親しく拝謁した事実を、死ぬまで一切公表しなかったのだ。
 これは、自己宣伝とは無縁の志賀の精神性の高さを表わすエピソードだといえるだろう。

 また阿川は、

【陛下が、「志賀は小説家だけどいいネ」と仰有ったそうだ。田島さんがそう言ってた。どうも、小説家というのはよくないものだと思っておられたらしいよ。】(同)

 と志賀が笑いながら阿川に言っていたエピソードも書き記している。(田島氏は宮内庁初代長官)

 こうした事実を知れば、何も知らずに、

【或る新聞の座談会で宮様が「斜陽を愛読してゐる、身につまされるから」とおつしやつていた。それで、いいぢやないか。おまへたち成金の奴の知るところではない。ヤキモチ。いいとしをして、恥づかしいね。太宰などお殺せなさいますの? 売り言葉に買ひ言葉、いくらでも書くつもり。】

 などと捨て台詞を吐いた太宰の俗物さと矮小さと幼稚さが逆に際立ってしまう。
 太宰と志賀の一体どちらが「成金趣味」で「ヤキモチ」で「恥ずかしい」んだか……。
 太宰はその続きを書かなくて良かった。
 知れば知るほど『如是我聞』は虚しく響くばかりである――。

(※阿川弘之は元海軍士官で、戦後「第三の新人」とカテゴライズされた小説家。阿川佐和子の父。佐和子が小学校に上がる際、志賀から黒いランドセルを贈られている)
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