第76話 第三の欺瞞『虚飾の傑作』【13】
文字数 1,072文字
【13】
『恋の蛍』によれば、その手紙によって富栄の異変を心配する富栄の母親が上京する。
手をつないで三鷹を歩く富栄と母親の二人の姿を太宰は偶然見かける。
そして太宰は六月十七日に富栄に別れを切り出すのだそうである。
『恋の蛍』に描かれているこのエピソードの出典は明らかではないが、山崎富栄の日記を調べてみると六月三日・十日・十七日の日記には思い当たるような内容が記されている。
まず六月三日付けの日記から。
【「なんでも話してね。僕になんでも話してね」
「頼りにしていい?」
「うん頼りにしてね」
「今夜は明るいね、いつも灯ついていなかったのに……」
ああ、幸せよ、永遠につづけ。逃げてゆくな……】
(山崎富栄『太宰治との愛と死のノート』)
この太宰と富栄の会話は一見見逃してしまいそうな何気ない会話だが、『恋の蛍』に記されているエピソードを知れば、富栄が塚本サキからお説教を食らった後で、その経緯や内容を太宰に話したことを示していると推測される。
それを聞いた後の太宰の「なんでも話してね。僕になんでも話してね」であり、富栄の「頼りにしていい?」なのだろう。
次に六月十日付けの日記から。
【 生活の方針も変わってきて、ああ、もう、生きていることが、つろうございます。愛人をもって、夫の生死を案じ、第三者からコヅかれて、それでも黙って生きているのです。私が死んだら一言の挨拶も塚本さんにはいりません。義理も充分果たしてありますし、教養のない主人に使われる人間の、まあ、何と可哀想なこと。】(同)
この文中の「塚本さん」とは、ミタカ美容院の店主、塚本サキである。
富栄は塚本サキを『教養のない主人』と評して、
【私が死んだら一言の挨拶も塚本さんにはいりません】
と切り捨てている。
次に六月十七日付けの日記から。
【一時間半も待ったというお言葉を楽しくきいて席についたのに、
「別れよう……」
と仰言る。
「何故ですか、私に何か気に入らないところがありまして?」
「いや、そうじゃないよ。君のお母さんを見ちゃったんだもの。年寄りって衿に白い布をつけてるね、見ちゃったんだもの。僕に母がないからかも分らないけど、お母さんからとっちゃうんだものな、君を。可哀想だよ」
「年寄りって、結局は物質的に豊かであればいいんですよ。私に死に水をとってもらいたいと思っているんでしょう」
「僕も一緒にとるよ。ごめんね、もう放さないよ。いい?」
優しい御言葉。これほどのことを言って下さる人が、ほかにあるだろうか!】
(同)
資料を調べながら、私は自分の疑問が氷解していくのを感じた――。
『恋の蛍』によれば、その手紙によって富栄の異変を心配する富栄の母親が上京する。
手をつないで三鷹を歩く富栄と母親の二人の姿を太宰は偶然見かける。
そして太宰は六月十七日に富栄に別れを切り出すのだそうである。
『恋の蛍』に描かれているこのエピソードの出典は明らかではないが、山崎富栄の日記を調べてみると六月三日・十日・十七日の日記には思い当たるような内容が記されている。
まず六月三日付けの日記から。
【「なんでも話してね。僕になんでも話してね」
「頼りにしていい?」
「うん頼りにしてね」
「今夜は明るいね、いつも灯ついていなかったのに……」
ああ、幸せよ、永遠につづけ。逃げてゆくな……】
(山崎富栄『太宰治との愛と死のノート』)
この太宰と富栄の会話は一見見逃してしまいそうな何気ない会話だが、『恋の蛍』に記されているエピソードを知れば、富栄が塚本サキからお説教を食らった後で、その経緯や内容を太宰に話したことを示していると推測される。
それを聞いた後の太宰の「なんでも話してね。僕になんでも話してね」であり、富栄の「頼りにしていい?」なのだろう。
次に六月十日付けの日記から。
【 生活の方針も変わってきて、ああ、もう、生きていることが、つろうございます。愛人をもって、夫の生死を案じ、第三者からコヅかれて、それでも黙って生きているのです。私が死んだら一言の挨拶も塚本さんにはいりません。義理も充分果たしてありますし、教養のない主人に使われる人間の、まあ、何と可哀想なこと。】(同)
この文中の「塚本さん」とは、ミタカ美容院の店主、塚本サキである。
富栄は塚本サキを『教養のない主人』と評して、
【私が死んだら一言の挨拶も塚本さんにはいりません】
と切り捨てている。
次に六月十七日付けの日記から。
【一時間半も待ったというお言葉を楽しくきいて席についたのに、
「別れよう……」
と仰言る。
「何故ですか、私に何か気に入らないところがありまして?」
「いや、そうじゃないよ。君のお母さんを見ちゃったんだもの。年寄りって衿に白い布をつけてるね、見ちゃったんだもの。僕に母がないからかも分らないけど、お母さんからとっちゃうんだものな、君を。可哀想だよ」
「年寄りって、結局は物質的に豊かであればいいんですよ。私に死に水をとってもらいたいと思っているんでしょう」
「僕も一緒にとるよ。ごめんね、もう放さないよ。いい?」
優しい御言葉。これほどのことを言って下さる人が、ほかにあるだろうか!】
(同)
資料を調べながら、私は自分の疑問が氷解していくのを感じた――。