第103話 2023 あとがき【2】

文字数 1,212文字

【2】 
 
 参考文献のリストを作るために、書架から蔵書を引っ張り出し、パソコンの前で奥付を確認していると、そのままページをパラパラと手繰って本文を読んでしまう。
 ものの三十分もあれば終わりそうな作業が、三時間もかかってしまったのは、そんな寄り道のせいだ――。

【静かな夜で、夜鳥(よどり)の声も聴こえなかった。そして下には薄い(もや)がかかり、村々の()も全く見えず、見えるものといえば星と、その下に何か大きな動物の背のような感じのするこの山の姿が薄く仰がれるだけで、彼は今、自分が一歩、永遠に通ずる路に踏出したというような事を考えていた。彼は少しも死の恐怖を感じなかった。(しか)し、若し死ぬならこの(まま)死んでも少しも(うら)むところはないと思った。然し永遠に通ずるとは死ぬ事だという風にも考えていなかった。
 彼は(ひざ)(ひじ)を突いたまま、どれだけの(あいだ)か眠ったらしく、不図(ふと)、眼を()いた時には何時(いつ)か、四辺(あたり)は青み勝ちの夜明けになっていた。星はまだ姿を隠さず、数だけが少なくなっていた。空が柔らかい青みを帯びていた。それを彼は慈愛を含んだ色だと云う風に感じた。山裾(やますそ)の靄は晴れ、(ふもと)の村々の電燈が、まばらに(なが)められた。米子(よなご)()も見え、遠く夜見(よみ)(はま)突先(とっさき)にある境港(さかいみなと)()も見えた。或る時間を置いて、時々強く光るのは美保(みほ)(せき)の燈台に違いなかった。湖のような中の海はこの山の陰になっている為()だ暗かったが、外海(そとうみ)の方はもう海面に鼠色(ねずみいろ)の光を持っていた。】
(志賀直哉 『暗夜行路』)

 母の不義の子として生まれ、その出生の事実に苦悩し、妻の過ちにも苦しめられる時任謙作の人生の彷徨は、この時、この瞬間を得るためにあったのだろう――、そう思わせるような文章だ。
 この文章は、このあと更に大山(だいせん)とそこから眺望される中の海の風景描写が続くのだが、その文節は、読んで一瞬で作中に引き込まれ、どんな精神状態のときにも、静かで穏やかな心境に、言い換えるなら、宗教的な心境にさえなっていくから不思議だ。
 自然の風景と主人公の心象が混然一体となって描かれている「描写」は、簡潔で単純であるのに読み手には深い感銘を与えるものだ。
 『暗夜行路』という作品は、結末に繋がるこの文章のために書かれた小説であり、十一年間の中断すらも、この文章が成立するために必要な時間だったのではないのか、そして、これまで毀誉褒貶の入り混じる評価を受けてきた『暗夜行路』は、この文章が書かれたことだけで報われ、傑作たりえたのではないかと、私はつねづね思っていたし、十二年ぶりに再読してみて、尚更その感を強くした。

 太宰は最初の創作集を『晩年』と名付けたが、その、なんの欲もなく、なんの虚栄もなく、曇りなく美しい十五の短編が、彼の最高傑作ではなかったのかと私には思えてならない。
 やはり『晩年』以降は、太宰にとっては余生だったのかもしれない――。
 
                                        【完】
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