第51話 第二の欺瞞『韜晦の仮面』【15】

文字数 1,306文字

【15】

 また、なぜ太宰は自分のことを語るために、他人を引き合いに出すのであろうか。

【他の人たちにはたいてい書画骨董などといふ財産もあり、それを売り払つてどうにかやつてゐたらしいが】

 などと訳知り顔で語っているが、これはなんの根拠もない太宰の主観であって、「自分を上げるために他人を下げる」という姑息な手段のように見える。
 そしてまた、ここに書かれている、太宰の経済状態についても虚構である。その論拠を、妻美知子の『回想の太宰治』から引用する。

【太宰はずっと国もとから月額九十円の仕送りを受けていた。(中略)
 大学出の初任給が七、八十円の時代であるから、九十円で一家を支えている人も多かったわけで、恵まれていたのだが、太宰は早く仕送りが止まっても困らないようにならなければ、と言うかと思えば、自分がいくら金を遣ったといっても、長兄の遣った金の方がずっと大きいのだ、などとも言い、仕送りを辞退して立派なところを見せたくもあるものの、やはりペン一本に頼る生活には不安な様子であった。(中略)
 戦後の物凄いインフレの進行で、仕送りの九十円はヤミ酒一本の価に下落していた。一家四人、厄介になっていることではあり、太宰から辞退を申出て、長年の仕送りは終わった。】
(津島美知子『回想の太宰治』)

 そのことは、鎌田慧氏の『津軽・斜陽の家』にも、このように書かれている。

【文治は、修治に毎月、百二十円ずつ仕送りすることを約束していた。しかし、両人が署名、捺印した「覚」(昭和六年一月作成)には、(中略)仕送り停止の条件が定められていた。が、そのすべてが反故にされてなお、まだ仕送りがつづけられていたのは、「覚」は努力目標というものであって、とにかく文治は大甘だった。文治は律儀に九十円の仕送りをつづけていた。】
(鎌田慧『津軽・斜陽の家』)

 貸家の平均的家賃が五円程度の時代に、帝大生の太宰は、生家から月百二十円の仕送りを受けていたという。
 その仕送りは太宰が不祥事を引き起し九十円に減額されるが、終戦直前太宰が金木に疎開するまで、続けられていたというから驚きである。
 文中の通り、戦後は物凄いインフレによって貨幣価値は下落しただろうが、『十五年間』の中で太宰が困窮を訴えているのは戦中の話であるから、仕送り金額にはそれなりの貨幣価値があったはずだ。
 太宰は他人の財布のことを書き連ねる前に、「収入はまるでなかったが、私には実家からの仕送りがあったので恵まれていた」と正直に書くべきであろう。

 現在の貨幣価値は、戦前当時の約六千倍相当とされているので、百二十円で七十二万円、九十円で五十四万円である。
 太宰が生家から受けた仕送りの総額を、現在の貨幣価値に換算してざっと試算してみれば、月額五十四万円だとして年間六百四十八万円。
 それが、十八歳から三十七歳までの十九年間続けられていたとして、一億円を超える金額になる。

 太宰の作品の数々は、太宰の実家から十九年間延々と続けられていた仕送りがあったからこそ書き続けられたものであって、いうなれば私達は、太宰が生家の一億円を浪費することによって生み出された作品を読んでいるのである――。
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