第21話 第一の欺瞞『如是我聞』【13】

文字数 869文字

【13】

 芥川は、この評論にわざわざ一項目を設けて志賀を取り上げ、

【志賀直哉氏は僕等のうちで最も純粋な作家……でなければ最も純粋な作家たちの一人である。】

  と最大級の賛辞を送っている。

 そして芥川は、志賀が【道徳的に清潔に】生きていると評し、

【これは或は志賀直哉氏の作品を狭いものにしたやうに見えるかもしれない。が、実は狭いどころか、反つて広くしているのである。なぜ広くするかと言へば、僕等の精神的生活に道徳的属性を加へることにより、その属性を加えていない前よりも広くならずにはゐないからである。】

 と極めて明快に志賀の人物と作品の関係性を解き明かし、志賀の「私小説的身辺小説」を、

【「話」らしい話のない小説は勿論唯身辺雑事を描いただけの小説ではない。それはあらゆる小説中、最も詩に近い小説である。】

 と評価している。

 芥川は、その評論の中でジュール・ルナールを取り上げ、

【わがルナアルの仕事は独創的なものだつた。】

 として、このような小説を日本に見出すなら、

【僕は僕等日本人の為に志賀直哉氏の諸短篇を……「焚火」以下の諸短編を数え上げたいと思つてゐる。】

 と書いている。

 芥川の志賀に対するこれらの論評は、決して皮肉やあてこすりの類ではない。
 なぜならこの『文芸的な、余りに文芸的な』において、芥川は谷崎潤一郎と文学論争を繰り広げており、芥川は自説の一つの根拠として志賀とその作品を取り上げているからだ。
(ただし、志賀の私生活が本当に「道徳的に清潔」だったかは疑問の残るところではあるけれど……)

 『如是我聞』において、太宰は志賀に対して、

【君について、うんざりしていることは、もう一つある。それは芥川の苦悩がまるで解つていないことである。】

 とこう投げつけた後で、

【日陰者の苦闘。弱さ。聖書。生活の恐怖。敗者の祈り】

 と羅列した。
しかし、これらは、芥川の苦悩というよりも、むしろ、太宰自身の苦悩ではなかったのか。

 太宰は、芥川に自分を仮託していたのかもしれないが、どうも私には、芥川と太宰は異質の人間だったように思えるのだ。
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