第33話 第一の欺瞞『如是我聞』【25】

文字数 1,175文字

【25】

 昭和二十一年から二十三年にかけて志賀はバッシングの嵐の中にいた。

【敗戦後の混乱期、志賀直哉を悪く言うのは一つの流行になった。同人雑誌で勉強中の無名の作家までが、時流に乗じて、かつての「小説の神様」を罵倒した。】(阿川弘之『志賀直哉』)

 戦後におけるこの一連の志賀批判の背景には、戦後すぐに志賀が発表した『国語問題』や『天皇制』という文章に対する反感と共に、志賀の『シンガポール陥落』の存在が背景にあり、それが「小説の神様」の異名と結びついて、「志賀=権威主義的戦前の遺物」というイメージが作り上げられたのだろう。

 そして、当時、それに関する志賀批判が山のように存在したのだ。だから、志賀が末娘に『如是我聞』についてその内容を質した際、

【「そのほか、どんなことが書いてある」と訊いたら、「シンガポール陥落のことが書いてある」と答えた。「分かった分かった」と私はそれ以上聴かなかったが、書いてあることは読まなくても大概分かった気がした。】

 という対応になったのだろう。
 当時、志賀批判を行なったのは、なにも太宰一人ではなかったのだ。

 また、太宰信奉者の中には、

「この当時、文壇の実力者である志賀直哉に公然と歯向かうことは、作家生命を絶たれるということを意味しており、それを敢えて行なった太宰の行為は評価に値する」

 などと書いている半可通の輩もいるが、これこそ笑止千万、贔屓の引き倒しのような言い草である。

 前述したように、戦後の混乱期、志賀を批判するのは一種の流行であった上に、昭和二十三年当時、志賀は一月から熱海の大洞台という片田舎に引っ込み隠棲生活を始めており、近隣のごく限られた人間としか交際していない。
 太宰が何を指して「文壇」と言ったのかは不明だが、当時、白樺派と称された人脈の影響力が、戦後の所謂「文壇」に対して大きな影響力を持っていた形跡もない。

 後年、当時の志賀の文壇への影響力として誤解されたのは、その前年に就任した「日本ペンクラブ会長」のことであろうが、その実際は、

【(敗戦後)再建される日本ペンの三代目会長に就任して欲しいと言われて、止むを得ず引き受けたけれど、何も出来ない名目だけの会長だからと、任期を一年に限ってもらった。事実、ペンクラブ主宰の集会に会長挨拶「若き世代に愬ふ」を書いて渡した以外、何もせず、任期の途中熱海の山荘に引越してしまい、以後東京へはめったにでて来なくなる。】(同)

 という状態であった。
 田舎に引っ込んで隠棲し、寡作の上にも寡作となって半ば引退したような六十五歳の志賀に、太宰は敢えて噛み付いてみせたのである。
 太宰はむしろ、時流に乗って志賀批判を繰り広げたと見られても仕方がない側面もある――。
(無論そこには、自分の余命を自覚し、書くなら今しかないと切羽詰った思いがあったかもしれないが……)
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