第70話 第三の欺瞞『虚飾の傑作』【7】

文字数 1,486文字

【7】

 この一節を太宰は『斜陽』にどう取り込んだのか。次に太宰の『斜陽』から引用する。

【お母さまのやうに、天性の教養、といふ言葉もへんだが、そんなものをお持ちの方は、案外なんでもなく、当然の事として革命を迎へる事が出来るのかも知れない。私だつて、かうして、ローザ・ルクセンブルグの本など読んで、自分がキザつたらしく思はれる事もないではないが、けれどもまた、やはり私は私なりに深い興味を覚えるのだ。ここに書かれてあるのは、経済学といふ事になつてゐるのだが、経済学として読むと、まことにつまらない。実に単純でわかり切つた事ばかりだ。いや、或ひは、私には経済学といふものがまつたく理解できないのかも知れない。とにかく、私には、すこしも面白くない。人間といふものは、ケチなもので、さうして、永遠にケチなものだといふ前提が無いと全く成り立たない学問で、ケチでない人にとつては、分配の問題でも何でも、まるで興味の無い事だ。それでも私はこの本を読み、べつなところで、奇妙に興奮を覚えるのだ。それは、この本の著者が、何の躊躇も無く、片端から旧来の思想を破壊していくがむしやらな勇気である。どのやうに道徳に反しても、恋するひとのところへ涼しくさつさと走り寄る人妻の姿さへ思ひ浮ぶ。破壊思想。破壊は、哀れで悲しくて、さうして美しいものだ。破壊して、建て直して、完成しようといふ夢。さうして、いつたん破壊すれば、永遠に完成の日が来ないかも知れぬのに、それでも、した恋ゆゑに、破壊しなければならぬのだ。ローザはマルキシズムに、悲しくひたむきの恋をしてゐる。】

 太宰の文章は原文に比べると、まことに読みにくい。
 原文の方が明晰で端的な文章なので、尚更その感が強い。
 太宰はこの一節を、あたかも自分の創作であるように見せたいという意図があったように思えなくもない。
 太宰的修辞を多用することによって太宰の筆致が演出されているが、読んでいるとそれらがかなり煩わしくて、原文の簡素さと判りやすさを阻害している。
 そして、太宰の文章は説明的なのにもかかわらず、論旨はうねうねとしており主旨が不明確だ。

 太田静子は、「自分の母は無欲で「ケチでない人間」だから、経済学の分配の問題には無関係の人間であり、従って素直に革命を迎えられる」という論旨のことを言っているのだが、太宰は、その母が、

【私より、お母さまの方が、思想的なタイプであり、革命的な感覚の持主なのである。】

 という点を全く無視して【天性の教養】という言葉に置き換えてしまったので、『斜陽』の方では、本来の文意が不明確になっている。

 また太宰は、この文章のロジックをまったく変更している。
 原文では太田静子が「この世界では完成ということはあり得ないのに、完成を信じて新しいものを生み出さんがために破壊する行為が、哀れで悲しくて美しいのだ」という論旨を述べているのに、太宰はそれを理解していないのか、敢えて改変したのか、『斜陽』の方では、

【さうして、いつたん破壊すれば、永遠に完成の日が来ないかも知れぬのに、それでも、したふ恋ゆゑに、破壊しなければならぬのだ。】

 などと、言わずもがななことを書いている。

 太宰のこの改変によって、太田静子の「破壊と完成についての逆説的なロジック」は全くスポイルされてしまった。
 そして、太宰は原文には書かれていない、

【片端から将来の思想を破壊していくがむしゃらな勇気である。どのやうに道徳に反しても、恋するひとのところへ涼しくさつと走りよる人妻の姿さへ思ふ浮かぶ。】

 という、蛇足のような一節を、なぜか(・・・)書き加えている。
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