第75話 第三の欺瞞『虚飾の傑作』【12】

文字数 1,158文字

【12】

 私は、『斜陽』の中の、象徴的な言葉である「古い道徳」についても疑問を持っていたことを次のように書いた。

『私には、太宰が「私生児とその母」を「古い道徳」と対比させていること自体「古い感覚」に感じられて仕方がない。太宰が、「古い道徳に対する革命の犠牲者」を「私生児とその母」だというのなら、随分観念的で類型的な「犠牲者」ではないか。』

 次に私は、太宰が、太田静子の『斜陽日記』が極めて精神的なものであるのにもかかわらず、それを無視してメロドラマのように加工したことにも、次のような疑問を持った。

『太宰はこの、【どのやうに道徳に反しても、恋するひとのところへ涼しくさつと走りよる人妻の姿さへ思ふ浮かぶ。】という一節を書き加えることによって、太田静子の思想を換骨奪胎してしまい、『斜陽』をメロドラマにしてしまったのだ。(中略)太宰はなぜ、このようなメロドラマのようなフレーズをわざわざ挿入したのか。『斜陽』を恋愛小説に仕立てるためなのか。太田静子はすでに「人妻」ではなかったのにもかかわらず、なぜ唐突に「人妻」なる言葉が登場してきたのか。』

 その疑問について、『恋の蛍』という山崎富栄の評伝を読んで、どうやらその疑問の答えを見つけ出した気がした。
 その答えにあたる部分を次に引用する。
(『恋の蛍』は平成二十一年十月二十五日に上梓された松本侑子氏の労作)

【隠しだてしない二人の関係は、三鷹にひろまっていた。
六月三日、ミタカ美容院の店主、塚本サキは、不機嫌に口をまげて、店の富栄を見ていたが、夕方、表をしめると、奥の事務所へくるよう言った。
「太宰さんという作家とつきあっているんですってね」 けわしい声だった。
「奥さんも子どももあるというじゃありませんか、困りますよ。晴弘校長先生からお嬢さんをお預かりしている私の責任はどうなるんです。晴弘先生は、口を酸っぱくして美容師の人格向上を教えられたというのに、娘が不埒な真似をして、親不孝ですこと。それにうちは女の客商売ですよ。二号さんの美容師なんて、不潔です。噂がたてば、商売にさわりがあります。しかもあなたは、ご主人の戦死公報もとどかないうちから、みっともない真似をして、恥ずかしい。そもそも小説家なんて、堅気じゃありませんよ。夜な夜なとりまきをひきつれて飲んだくれている放蕩者でしょ、あなたの人間が駄目になります」
塚本の忠告は、ごく常識的なものだった。塚本もまた未亡人であり、昭和十九年に夫を喪っていた。(中略)
だが恋にのぼせている富栄は、塚本を、文学を知らない無教養な経営者だと軽蔑した。(中略)
ところが塚本は、八日町の親もとへ手紙を送った。
娘さんに愛人がいると書けば、雇い主である塚本の立場がない。うまくぼかして、様子を見てほしいと書いた。】(松本侑子『恋の蛍』)
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