第32話 第一の欺瞞『如是我聞』【24】

文字数 941文字

【24】

【とにかく、私のいった事が心身共に弱っていた太宰君には何倍かになって響いたらしい。】

 志賀は『太宰治の死』の後半、このように書いている。
 当時の太宰の精神状態が一般的に認知されていたように心神耗弱状態であったかは不明だが、志賀の言うように【太宰君には何倍かになって響いた】のは確実なのであろう。

 そして志賀は、

【(『斜陽』について)井伏君が二行でもいいから誉めてもらえばよかったといっていたという事を聴き、私の心は痛んだ。】

 と続けるのだが、それは私が前述した、「太宰は志賀に褒めて欲しかったんじゃないのか」という考えを裏付けるものだろう。
(ただ、井伏の『二行でもいいから誉めてもらえばよかった』という言葉はあくまでも井伏の主観に基づいた言葉ではあるが……)

 太宰が『如是我聞』において志賀に噛み付いた理由として、「志賀が「新日本文学界」のメンバーであり、その「新日本文学界」によって「戦犯文学者」が指名され、その「戦犯文学者」の中に太宰と近しい文学者が連なっていたからではないか」という論もあるようだが、私はこれも志賀の言動を不正確に引用したものだと感じている。

 新日本文学界は昭和二十年十二月三十日に結成され、翌二十一年三月に『新日本文学』が刊行されている。
 志賀は新日本文学界結成時に賛助会員となっているが、翌二十一年三月十一日には脱会している。
 賛助会員とは名前貸しの会員であり、志賀は同人誌の発刊前後に脱会しているので何ら主だった活動はしていないことになる。
 「新日本文学界」による「戦犯文学者」は、三月に刊行された『新日本文学』にて提案されたことであるから、志賀はその提案に加わっていない。
 「戦犯文学者」には志賀の盟友である武者小路実篤も指名されているのだから、志賀がその決定に参加している訳がない。

 志賀は新日本文学界発起人の中野重治に依頼されて、『新日本文学』に『随想』を寄稿するが、当初の中野の説明とは違う主旨に納得出来ず、志賀は書簡にて中野に即刻退会を申し入れているのだ。
 その書簡は当時は公表されていないため、志賀が「新日本文学界」を脱会していた事実を知っていた人間は少ない筈で、そうしたことが当時の志賀の悪評の一因となったのかもしれない。 
    
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