第91話 終章『最期の逆説』【6】

文字数 729文字

【6】

 晩年、自ら望んで茨の道を歩んだトルストイとは対照的に、安楽椅子に腰掛けたまま大家然としていた志賀を、太宰は許せなかったのだろうか?

 しかしそれにしても、太宰はどんな立場から志賀を批判したのだろうか? 
 太宰の本心はどこにあったのだろう? 
 おそらく――、太宰は、ただ一方的に志賀を断罪していたのではないと思う。
 なぜか私にはそう感じられるのだ。

【もし人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたの過ちをお赦しになる。しかし、もし人を許さないなら、あなたがたの父もあなたがたの過ちをお赦しにならない。】

 これは、『マタイによる福音書』六章十四節だが、聖書研究に堪能だった太宰がこの聖句を知らない訳がないだろうし、自らの死期を悟った太宰には重い言葉だったはずだ。

 おそらく太宰は、『如是我聞』において志賀を批判すると同時に、自分自身を批判していたのではないのか。
 自分のなかにある志賀的なものを自覚し、その影に怯え、それを自己批判しようとしていたのではないのか? 
 志賀に対する太宰の激烈な言葉の数々は、太宰自身に向けられていて、それによって、太宰はこれまでの自分の人生を(かえり)み罰していたのではないのか――?
 
 トルストイが、

【私はもうこれ以上、自分が暮らしてきた贅沢な生活を続けることはできない。だから私は、自分と同年輩の老人なら当たり前のことをするまでのことだ。つまり、生涯の最後の日々を孤独と静寂のなかで過ごすために俗世を去るのだ。】

 と言って八十二歳で家出したように、晩年の太宰の生活は、「炉辺の幸福が怖い」と言った自分の言葉に責任を持った「太宰の家出」だったのかもしれないけれど、一人では生きていけない太宰の家出には富栄の存在があった――。
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