第28話 第一の欺瞞『如是我聞』【20】

文字数 1,009文字

【20】

 この手記の特徴は、「ひたむきな読者」を持ち出すことによって、自分の私憤を義憤にすり替えているところだが、太宰にしてみればすり替えている気は毛頭なくて、太宰の頭の中でいつの間にかすり替わっているのであろう。

 このような「八つ当たり的いちゃもん」が、太宰の頭の中ではいつの間にか大義名分のある立派な義憤となっているのだ。
 でなければ、このような手記は、おいそれと公表できるものではない。
 普通の神経の持ち主なら、そのようなものは書いた後で読み直せば、赤面してゴミ箱に捨てる類のものであろう。
 それを臆面もなく雑誌に発表してしまうところが太宰の太宰たる由縁である。

 おそらく、『如是我聞』も同様の精神構造によって書かれたものなのだ。
 『川端康成へ』から『如是我聞』までの間には十三年の時が流れている。
 その間、太宰の人生は運命に翻弄され疾風怒濤のごとく変化し、その結果多くの作品が生み出され太宰にも精神的成長がそれなりにあった筈である。
 しかし、その二つの手記を、試しに続けて読んでみれば、「同じ作品か?」と錯覚するほど、何の違和感も齟齬もないことに驚かされる。

 事実、太宰は『如是我聞』の冒頭に、

【自分は、この十年間、腹が立つても、抑へに抑へてゐたことを、これから毎月、この雑誌(新潮)に、どんなに人からそのために、不快がられても、書いて行かなければならぬ。】

 と手記執筆の動機を語っているのだが、まさに太宰のこの怒りの出発点が『川端康成へ』なのであり、太宰はその十三年間、そのどす黒く澱んだ泥沼のような怒りを、忘れることなく胸に溜め込んでいたのかと思うと、空恐ろしいものを感じてしまう。

 太宰の言論や言動を俯瞰して感じられるのが、太宰の「父性への嫌悪と憧憬」であり、権威的な存在に対して嫌悪感を覚え反抗的態度になる傾向が見られる。
 そして、その裏返しとして「権威に認めて欲しい」という欲求と結びつきやすいと云われている。

 そうしたことを背景に、太宰がなぜあれだけ志賀を執拗に攻撃したのかと考えるとき、

「太宰は、ただ単に志賀に褒めて欲しかったのではないか」

 という答えが思い浮かぶ。
 しかし、【恐らく、この「斜陽」は、本年度日本文学における最高の収穫ではあるまいか】(昭和二十二年『新潮』十月号の編集後記)と賞賛されたこの作品ですら、志賀は【僕にはどうもいい点が見つからないね】と言って全く認めなかった――。
  
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