第58話 第二の欺瞞『韜晦の仮面』【22】

文字数 1,271文字

【22】

 太宰は、生家をことあるごとに誇った。
 まるで津軽人が、五千本の桜が咲き誇る弘前城や秀麗な岩木山を誇るように。
 しかし、美知子は太宰の生家の屋敷を初めて見た際の、彼女なりの驚きを次のように書いている。

【太宰の熱のこもった北国の大きな生家の話を聞いているうちに、愚かな私の空想は果てしなく拡がっていって、小公子が祖父の公爵の城に迎えの馬車で乗り込む。城門を通過してからも鹿や兎の遊ぶ並木道を何マイルも走ってやっと玄関に着く、大変ロマンチックに田園調に想像していたのである。(中略)
 私が以前見た地方の豪家は、その家の歴史についてはよく知らないが、東西、南北とも四、五十間(約八十メートル)の土塀と環濠をめぐらした堂々たるものであった。それ程でないまでも道路から奥まって長屋根を構え、その奥にさらに広く深い前庭をおいて書院造の玄関、塀越しに形よく刈りこまれた庭木や土蔵の屋根と白壁が望まれるのが、私の頭に中に先入観としてあった地主や山持ちの邸の定石で、母屋は厚い瓦をのせた平屋建ばかりである。
 ところが山源は全く私の想像外で、まず二階建て、田園の旧家風ではなく下町の商家風の構えである。(中略)甲州の製糸王と謳われた下町のY家が一番感じが似ていると思った。】(同)

 この美知子の驚きは、太宰の生家の屋敷を見てその豪壮さに驚いたというものではなく、むしろ「肩透かし」を食らって驚いたというものだ。
 美知子が持っている「名家・豪家」の屋敷についての認識は、一般常識として妥当なものだろう。
 また美知子の常識の中では「豪家」と「商家」は明確に区別されている。
 例えば、何百年も続いている山陰地方の山林王の存在や、日本に実在する本当の名家や豪家とはどのような存在で、その屋敷がどんなものなのかを、太宰は知らなかったのだ。

 自分が生まれ育った金木の町では唯一の存在である生家とその屋敷が、彼の中では唯一の名家であり名家の屋敷であったのだ。
 だから太宰は怖いもの知らずで、自分の生家を名家と世間に吹聴しその屋敷を誇った。
 しかし、世の常識では商家がいくら大きくても、それだけで名家とは言わないのだ。
 美知子の純粋な驚きは如実にそのことを物語っている。
 ちなみに、明治大正期の東京のブルジョアの屋敷の例を次に紹介したい。

【何しろ敷地千六百坪、大正初年大改築をしたあとの建坪およそ三百坪、近隣にも大鳥圭介邸を始め、公爵子爵、陸軍大将、海軍中将の邸、英国人建築家の住まいとか駐日フランス大使館員の住まいとか、大きな家々が建ち並んでいた。門は谷中の寺の欅造りの古い山門を移築したもの、土蔵が千葉行徳の質屋の蔵だったという三階建て、庭に築山、東屋、牡丹の花壇薔薇の花壇があり、北東の一隅寒竹の植え込みの奥には、石の鳥居と一対の石狐、口を漱ぐ水屋と参道を備えた子育稲荷の社があった。】
(阿川弘之『志賀直哉』)

 これは、太宰に、

【おまへはいつたい、貴族だと思つてゐるのか。ブルジョアでさへないぢやないか。】

 と(あげつら)われた、志賀が青年時代を過ごした生家の描写である。
 
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