第22話 第一の欺瞞『如是我聞』【14】
文字数 1,111文字
【14】
芥川は生前多くの人物と親交を持ってはいたが、彼は、自作『河童』に描いたような「自分一人、河童の世界で河童に囲まれて暮らしている」「自分以外の存在はすべて河童だ」とでもいうような屈折した深い孤立感の中で生きていたのではないか? と私には思えてならない。
その底深い孤立感は、芥川自身の根源的なアイデンティティーの欠如が背景にあり、芥川が放つ虚無感のオーラは、彼の決して恵まれているとは言えない複雑な出自のトラウマによるものではないのか。
その点、恵まれた出自の太宰が、芥川の虚無感を理解しようとしても、また自身でそれを演出しようとしても、それはどだい無理な話であろう。
むしろ、「他者を通して認識する自意識」という点において、太宰には志賀との類似点が認められる。
二人の自意識と自己肯定は強烈だが、それは取りも直さず「強烈に他者を意識している」ということだ。
太宰も志賀も、その生涯において「家」や「家族」というものを強烈に意識していた。
見え方や見られ方は違っていても、その根本において太宰と志賀は同質の人種のように思えてならない。
彼ら二人のアイデンティティーの根源は、「家」であり「家族」である。
二人とも家長との確執を経験しているが、その確執の本質は「甘え」である。
彼等の反抗は、「家」や「家族」を自身のアイデンティティーのバックボーンにしていながら、その枠組みの中での反抗であるため、高が知れているのである。
太宰の長兄との精神的確執は、そのほとんどが作品上の虚構である。
太宰は自分に対する長兄の愛情を十分に自覚しながら、作品の中では自分が被害者となり確執を書きたてた。
太宰が『如是我聞』において、「家庭のエゴイズム」を攻撃するのは、太宰が己の懐にそれを隠し持っていることを自覚しており、そのことを恐れていたからではないのか。
それはまた、「志賀が持っているものを自分も持っている」と気づいた恐怖であろう。
太宰は、芥川になるつもりの自分が、実は志賀と同質の人種であることを知って愕然とし、それを必死で打ち消すために『如是我聞』をムキになって書いたのではないか、という想像すらしてしまう。
自身の「選民意識」を自覚し、それを必死に否定しようとした太宰が、選民でありながら選民意識など全く意識することなく、したがってそれについてまったく罪悪感を持つことのなかった志賀に対して、ある種の羨望と近親嫌悪の感覚を持ったということではないのか。
太宰が見せる自己否定のポーズは、強烈な自己肯定の裏返しなのである。
太宰は晩年、そのことに自分自身で薄々……、いや、はっきりと自覚していていたはずなのだ――。
芥川は生前多くの人物と親交を持ってはいたが、彼は、自作『河童』に描いたような「自分一人、河童の世界で河童に囲まれて暮らしている」「自分以外の存在はすべて河童だ」とでもいうような屈折した深い孤立感の中で生きていたのではないか? と私には思えてならない。
その底深い孤立感は、芥川自身の根源的なアイデンティティーの欠如が背景にあり、芥川が放つ虚無感のオーラは、彼の決して恵まれているとは言えない複雑な出自のトラウマによるものではないのか。
その点、恵まれた出自の太宰が、芥川の虚無感を理解しようとしても、また自身でそれを演出しようとしても、それはどだい無理な話であろう。
むしろ、「他者を通して認識する自意識」という点において、太宰には志賀との類似点が認められる。
二人の自意識と自己肯定は強烈だが、それは取りも直さず「強烈に他者を意識している」ということだ。
太宰も志賀も、その生涯において「家」や「家族」というものを強烈に意識していた。
見え方や見られ方は違っていても、その根本において太宰と志賀は同質の人種のように思えてならない。
彼ら二人のアイデンティティーの根源は、「家」であり「家族」である。
二人とも家長との確執を経験しているが、その確執の本質は「甘え」である。
彼等の反抗は、「家」や「家族」を自身のアイデンティティーのバックボーンにしていながら、その枠組みの中での反抗であるため、高が知れているのである。
太宰の長兄との精神的確執は、そのほとんどが作品上の虚構である。
太宰は自分に対する長兄の愛情を十分に自覚しながら、作品の中では自分が被害者となり確執を書きたてた。
太宰が『如是我聞』において、「家庭のエゴイズム」を攻撃するのは、太宰が己の懐にそれを隠し持っていることを自覚しており、そのことを恐れていたからではないのか。
それはまた、「志賀が持っているものを自分も持っている」と気づいた恐怖であろう。
太宰は、芥川になるつもりの自分が、実は志賀と同質の人種であることを知って愕然とし、それを必死で打ち消すために『如是我聞』をムキになって書いたのではないか、という想像すらしてしまう。
自身の「選民意識」を自覚し、それを必死に否定しようとした太宰が、選民でありながら選民意識など全く意識することなく、したがってそれについてまったく罪悪感を持つことのなかった志賀に対して、ある種の羨望と近親嫌悪の感覚を持ったということではないのか。
太宰が見せる自己否定のポーズは、強烈な自己肯定の裏返しなのである。
太宰は晩年、そのことに自分自身で薄々……、いや、はっきりと自覚していていたはずなのだ――。