第48話 第二の欺瞞『韜晦の仮面』【12】
文字数 1,288文字
【12】
それは『如是我聞』に先立つ八年前、太宰は『駆け込み訴へ』で、イエスの行動が凡人ユダの目には、暴挙・愚挙にしか映らないことを、ユダにこう言わせているからだ。
【左様、たしかに、やけくそです。私はその姿を薄汚くさへ思ひました。殺されたがつて、うづうづしてゐやがる。(中略)馬鹿なことです。噴飯ものだ。口真似するのさへ、いまはしい。たいへんな事を言ふ奴だ。あの人は、狂つたのです。】
これらを読めば、『如是我聞』の執筆意図は、八年前に『駆け込み訴へ』の中に書かれていて、それはまるで昭和二十三年の太宰の行動計画書のようでもあり、「太宰は八年前に書いた作品の通りの行動をしていたのではないか?」という想像に駆られてしまう。
それは、この『駆け込み訴へ』からの引用をこう書き直してみれば一目瞭然だろう。
そして、太宰が『如是我聞』を発表した当時、おそらく多くの人間はこのようにみなしていた筈なのだ。
「やがてあの人は『斜陽』を発表した後、自分に集まる大勢の読者やジャーナリズムを前にして、『如是我聞』という、これまで述べた言葉のうちで一番ひどい、無礼傲慢の暴言を、滅茶苦茶に、わめき散らしてしまつたのです。左様、たしかに、やけくそです。私はその姿を薄汚くさへ思ひました。死にたがつて、うづうづしてゐやがる。馬鹿なことです。噴飯ものだ。口真似するのさへ、いまはしい。たいへんな事を言ふ奴だ。あの人は、狂つたのです。」
『如是我聞』は、山崎富栄の部屋で、『新潮』編集者の野平健一に口述筆記させたものだと伝えられている。
激烈な調子の『如是我聞』だが、その調子とは裏腹に、太宰は結核の進行によって相当衰弱していたようだ。
その口述筆記の様子は文字通り、血を吐くようなものだったに違いない。
そう思えば、太宰の無礼傲慢な暴言の数々も、太宰にとっては違った意味を持っていたのかもしれない――。
前章で取り上げた、芥川の『文芸的な、余りに文芸的な』は、芥川と谷崎の有名な文学論争であるが、昭和二年七月二十四日の芥川の自殺によってその論争は幕が下ろされた。
つまり『文芸的な、余りに文芸的な』は芥川の遺作なのだが、『如是我聞』を発表していた頃の太宰の脳裏には、その芥川の自殺と彼のその遺作の存在があったのではないだろうか。
作家としての名声は次第に上がるけれども、身辺は常にごたごたし、不治の病は進行しているという、当時太宰がおかれた状況を考慮すれば、彼が「俺も芥川のような幕引きを……」と考えたとしてもおかしくはない。
しかし、芥川の『文芸的な、余りに文芸的な』と、太宰の『如是我聞』は全く性質の異なるものである。
『文芸的な、余りに文芸的な』は、相手と正々堂々と繰り広げた芸術論であり、「小説の本質とは何か」という日本近代文学の立脚点を考察した、大義ある文学論であった。
一方、『如是我聞』は、肝心の相手は土俵に上がって来ず、太宰が読者に見せた独り芝居となり、太宰の意図に反して太宰のメッセージは理解されず、その真意は誤解され矮小化したもので終わってしまったように思われてならないのだ――。
それは『如是我聞』に先立つ八年前、太宰は『駆け込み訴へ』で、イエスの行動が凡人ユダの目には、暴挙・愚挙にしか映らないことを、ユダにこう言わせているからだ。
【左様、たしかに、やけくそです。私はその姿を薄汚くさへ思ひました。殺されたがつて、うづうづしてゐやがる。(中略)馬鹿なことです。噴飯ものだ。口真似するのさへ、いまはしい。たいへんな事を言ふ奴だ。あの人は、狂つたのです。】
これらを読めば、『如是我聞』の執筆意図は、八年前に『駆け込み訴へ』の中に書かれていて、それはまるで昭和二十三年の太宰の行動計画書のようでもあり、「太宰は八年前に書いた作品の通りの行動をしていたのではないか?」という想像に駆られてしまう。
それは、この『駆け込み訴へ』からの引用をこう書き直してみれば一目瞭然だろう。
そして、太宰が『如是我聞』を発表した当時、おそらく多くの人間はこのようにみなしていた筈なのだ。
「やがてあの人は『斜陽』を発表した後、自分に集まる大勢の読者やジャーナリズムを前にして、『如是我聞』という、これまで述べた言葉のうちで一番ひどい、無礼傲慢の暴言を、滅茶苦茶に、わめき散らしてしまつたのです。左様、たしかに、やけくそです。私はその姿を薄汚くさへ思ひました。死にたがつて、うづうづしてゐやがる。馬鹿なことです。噴飯ものだ。口真似するのさへ、いまはしい。たいへんな事を言ふ奴だ。あの人は、狂つたのです。」
『如是我聞』は、山崎富栄の部屋で、『新潮』編集者の野平健一に口述筆記させたものだと伝えられている。
激烈な調子の『如是我聞』だが、その調子とは裏腹に、太宰は結核の進行によって相当衰弱していたようだ。
その口述筆記の様子は文字通り、血を吐くようなものだったに違いない。
そう思えば、太宰の無礼傲慢な暴言の数々も、太宰にとっては違った意味を持っていたのかもしれない――。
前章で取り上げた、芥川の『文芸的な、余りに文芸的な』は、芥川と谷崎の有名な文学論争であるが、昭和二年七月二十四日の芥川の自殺によってその論争は幕が下ろされた。
つまり『文芸的な、余りに文芸的な』は芥川の遺作なのだが、『如是我聞』を発表していた頃の太宰の脳裏には、その芥川の自殺と彼のその遺作の存在があったのではないだろうか。
作家としての名声は次第に上がるけれども、身辺は常にごたごたし、不治の病は進行しているという、当時太宰がおかれた状況を考慮すれば、彼が「俺も芥川のような幕引きを……」と考えたとしてもおかしくはない。
しかし、芥川の『文芸的な、余りに文芸的な』と、太宰の『如是我聞』は全く性質の異なるものである。
『文芸的な、余りに文芸的な』は、相手と正々堂々と繰り広げた芸術論であり、「小説の本質とは何か」という日本近代文学の立脚点を考察した、大義ある文学論であった。
一方、『如是我聞』は、肝心の相手は土俵に上がって来ず、太宰が読者に見せた独り芝居となり、太宰の意図に反して太宰のメッセージは理解されず、その真意は誤解され矮小化したもので終わってしまったように思われてならないのだ――。