第47話 第二の欺瞞『韜晦の仮面』【11】

文字数 854文字

【11】

 太宰が『駆け込み訴へ』や『如是我聞』で引用した「マタイの福音書の第二十三章」だが、それはイエスのエルサレム入城直後のエピソードにまつわるものである。
 イエスが神殿から商人を追い出し、その後神殿にて群集を集め数々の説教をした、その説教の中の一つである。
(イエスはその場で、パリサイ派やサドカイ派の長老や祭司長から挑発的な問答を仕掛けられ、それをことごとく論破し退けたが、そのことがイエスのその後の運命を決めた。律法学者とパリサイ派の人々を厳しく糾弾した後、イエスは捉えられ磔刑となる。)
  
 私は前章で、『如是我聞』について「なぜ太宰はあのような混乱した手記を世に出したのだろうか」という疑問を呈したが、『如是我聞』自体をよくよく読んでみれば、そのヒントは、冒頭に示されていたのだ。
それは、

【そのやうな、自分の意思によらぬ「時期」がいよいよ来たやうなので、】

 という一節である。
 この文章の意味を考えれば、「太宰は、自分をイエスに(なぞら)えていたのか?」そんな思いが頭をよぎる――。

 太宰にとって、自分の『斜陽』の成功は、まるでイエスのエルサレム入城に重なるように思えたのではないだろうか。
 そして、その成功と間近に迫った死期を悟って、【自分の意思によらぬ「時期」がいよいよ来たやうなので】、「大馬鹿先生や老大家」を「律法学者とパリサイ派の人々」になぞらえ、それらを糾弾すべく、『如是我聞』を「イエスの神殿における乱暴狼藉」に模して発表したのだろうか?

 当時の太宰の極度に悪化した健康状態を考えれば、太宰は死期を予感し、死ぬ前に己の成すべきことを成さねばならぬという切羽詰まった気持ちで『如是我聞』を発表したとも考えられる。

 戦前までは、「知る人ぞ知る」というようなマイナーな作家だった太宰が、戦後『斜陽』によって一躍檜舞台に立たされた時、その心境にはなんらかの変化があった筈だ。
 太宰は『如是我聞』を発表し、自分のしていることが、一般社会の基準から見れば暴挙であることも十分自覚していた筈なのだ。
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