第60話 決意

文字数 575文字

 受話器を置いたリュウは、仲間たちから離れて部屋を出た。
 グミの木のある庭園。高い塀に囲まれた、ひっそりとした西洋風の館。この隠れ家は同志である上海の実業家が提供してくれたものだ。
 大きく窓を開けて、彼は外気を吸った。
 壁にもたれ、眼を閉じて額に手を当てる。その姿勢のまま、彼は長いこと動かなかった。
 知らなかった、最初は。唯音が日本軍の実力者の姪だなどと。
 卑劣だな。眼を閉じたまま、自嘲する。目的のためなら平気で人を裏切り、手を汚す。最低の人間だ。
 だが、他にどうしようがあった?
 大国の侵略。騒乱と貧困と飢えに苦しむ祖国を、何とかして救いたかった。
 憲兵隊に捕えられた彼らは貴重な同志だ。失うわけにはいかなかった。手をこまねいていれば、闇へと葬られるに決まっている。
 あらゆる努力が徒労に終わった果ての、最後の切り札。どのような形であれ、貴堂大佐は動くだろう。唯音を救うために。
 彼女のおじに寄せる敬愛と信頼が、二人の関係を物語っている。
 しかし、万一、大佐がこちらの要求を受け入れなかったら、彼女はどうなる?
 仲間たちは充分すぎるほど日本人を憎んでいる。無事ではすまないだろう。
 唯音の笑顔が脳裏をよぎり、彼は額から手を外した。
 ひとつの決心を自分の内で固め、空を睨みつける。
 もしも交渉が決裂し、最悪の状況になってしまったら。その時は──。

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登場人物紹介

貴堂唯音(きどうゆいね)


十八歳。日本での窮屈な暮らしから逃れ、歌手をめざして上海にやって来る。

中原悠哉(なかはらゆうや)


唯音の義理の兄。上海でジャズ・ミュージシャンをしている。

リュウ


唯音が出会った中国人の青年。上海を離れていたが、ある目的を秘めて戻って来る。

貴堂大佐


唯音のおじ。武官として上海に駐在している。

早くに妻を亡くし、唯音を実の娘のように可愛がっている。

アレクセイ


ナイトクラブ「ブルーレディ」のウェイター長。彼が子供の頃、祖国で革命が起こり、両親と共に上海に逃れてきた。

リーリ


ブルーレディの踊り子。リュウとはかつて恋人同士だったと言うが……。

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