第50話 パーラー

文字数 680文字

 おじとの昼食を終え、唯音が家を出たのは午後二時になる少し前だった。
「仕事までは、まだ時間があるのだろう? もっとゆっくりしていけばいいのに」
 玄関先で引き留めようとする大佐に、ごめんなさい、と唯音は頭を下げた。
「今日はこれからお友達と約束があるの」
「それでは仕方ないな」
 残念そうにつぶやくおじに、明るくほほえみかける。
「美味しい昼食だったとシュウレイさんに伝えておいてくださいな。じゃ、わたし、これで失礼します」
「ああ、気をつけて」
「おじさまも、くれぐれも無理なさらないでね」
「わかったわかった」
 苦笑いするおじに見送られて玄関を出た唯音は、通りを渡り、共同租界の方角へと足を向けた。
 ガーデンブリッジを渡り、税関の時計塔を見上げ、歩く速度を速める。
 いけない、少し遅れそうだわ。
 二時にリュウとの約束があった。場所は南京路のパーラーだった。
 せわしなく約束の場所に急ぎながらも、唯音は心が弾むのを感じた。
 リュウと会うのは半月ぶりだ。昨日、突然、ブルーレディに連絡が舞い込んできた。
 彼にはこちらから連絡がつかなかった。前に住所をたずねたら、「宿なしさ。友達のところを点々としているんだ」と曖昧に答えただけだった。
 通りの喧騒の中、約束の店にたどり着くと、唯音はパーラーの白いドアを開けた。
 多様な客たちの中に彼を探し、ぱっと瞳を輝かせる。壁際のテーブルに片肘をついて何かを考えこんでいる姿。
 テーブルの間をぬって、彼のいる席に近づき、明るく声をかける。
 だが、唯音の弾んだ気持ちをよそに、彼は肩をびくっとさせ、顔を上げた。初めて唯音に気づいた風だった。

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登場人物紹介

貴堂唯音(きどうゆいね)


十八歳。日本での窮屈な暮らしから逃れ、歌手をめざして上海にやって来る。

中原悠哉(なかはらゆうや)


唯音の義理の兄。上海でジャズ・ミュージシャンをしている。

リュウ


唯音が出会った中国人の青年。上海を離れていたが、ある目的を秘めて戻って来る。

貴堂大佐


唯音のおじ。武官として上海に駐在している。

早くに妻を亡くし、唯音を実の娘のように可愛がっている。

アレクセイ


ナイトクラブ「ブルーレディ」のウェイター長。彼が子供の頃、祖国で革命が起こり、両親と共に上海に逃れてきた。

リーリ


ブルーレディの踊り子。リュウとはかつて恋人同士だったと言うが……。

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