第57話 失踪

文字数 683文字

「唯ちゃんが、消息を断ちました」
 同時刻。貴堂大佐の自宅を訪れた悠哉は、沈痛な面持ちで状況を伝えていた。
「出勤時間になっても店に姿を見せません。連絡も入らず、アパートにも行きましたが、人の気配はありませんでした」
 応接間で茉莉花(ジャスミン)茶を置いたテーブルをはさみ、大佐と悠哉の間を重苦しい空気が流れていく。
「今朝は退院する私に付き添ってくれた。一緒に昼食を取って、午後二時頃、この家を出た。友人に会うと言っていたが……」
「僕もそれは知っています。昨夜、店に連絡が入って約束をしていました」
「相手には心当たりがあるかね」
 ええ、と悠哉はうなずいた。リュウだ。
「その友人から何か手掛かりを聞けないだろうか」
「彼も店には姿を現しませんでした。今どこにいるかもわかりません」
「どんな人物だ?」
「中国人の青年です」
 そして、一瞬ためらってから、
「抗日活動をしていると噂がありました」
「……」
 不吉な予感に大佐の表情がこわばった時だ。だんなさま、と手伝いのシュウレイが呼びに来た。
「どうしたね? 今は大事な話をしているんだが」
 シュウレイはもじもじしながら、だんなさまに電話がかかっている、と知らせる。
 わかった、と大佐は椅子から立ち上がった。失礼、と悠哉に断ってから応接間を出ていく。
 残された悠哉は落ち着きなく部屋の中を見回した。
 何時間か前までは、唯音は確かにこの家にいたのだ。
 唯音はいったいどこに消えてしまったのか。
 彼女の失踪にリュウは関係があるのだろうか。
 いたたまれない気持ちを静めようと、悠哉は冷めてしまった茉莉花茶に口をつけた。
 今は、唯音の無事を祈るしかなかった。

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登場人物紹介

貴堂唯音(きどうゆいね)


十八歳。日本での窮屈な暮らしから逃れ、歌手をめざして上海にやって来る。

中原悠哉(なかはらゆうや)


唯音の義理の兄。上海でジャズ・ミュージシャンをしている。

リュウ


唯音が出会った中国人の青年。上海を離れていたが、ある目的を秘めて戻って来る。

貴堂大佐


唯音のおじ。武官として上海に駐在している。

早くに妻を亡くし、唯音を実の娘のように可愛がっている。

アレクセイ


ナイトクラブ「ブルーレディ」のウェイター長。彼が子供の頃、祖国で革命が起こり、両親と共に上海に逃れてきた。

リーリ


ブルーレディの踊り子。リュウとはかつて恋人同士だったと言うが……。

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