第89話 ありったけの想い

文字数 805文字

「でも、どうして、あなたがこんなところに……」
 瞳をのぞきこんでたずねる唯音に、彼は黙ったまま、自分でも困惑したような表情を浮かべた。
「ここに来てくれたのは、わたしのため? そう思っていいのね?」
「……君のことが心配だった。無事に避難したかどうかだけでも確かめたいと思ったんだ」
 また涙が彼女の頬を伝い落ちる。だが彼はふと思い直したように首を振った。
「いや、違う。ひょっとしたら、ただの自己満足かもしれない」
「自己満足?」
「そうさ。祖国や同胞のために俺は何もできなかった。だからせめて君だけでも守りたかったんだ」
 やるせない表情での、苦々しい言葉。
「わたしに銃を向けた男は死んだの?」
「いや、死んじゃいない。当て身を受けただけだからね」
「あなたはまた、わたしのために同胞を裏切ってしまったのね」
 それには答えず、リュウは唯音の瞳を見つめた。息苦しいほど二人は見つめあった。
「さっき、男たちに追われていた時、わたしが何を考えていたと思う?」
 軽く首を傾げる彼に向かって、あなたのことよ、とうっすら笑う。
「このまま死んでしまうのなら、その前にもう一度、愛していると言っておけばよかった、そう悔やんで……」
 言葉は最後まで続かなかった。彼女は腕の傷をよけて、きつく抱きしめられたからだ。
 自由になる左手を彼の背中に回す。そうして告げる。自分の内の真実を。
「やり直せるわ! わたしたち、きっと新しく始められるわ」
 ありったけの想いをこめた言葉。
「どこでもいいわ。この街を出て一緒に暮らすの」
 唯音を抱きしめる腕に力がこもり、彼の眼がせつなく細められる。
 だが、そっと体を離し、彼は首を横に振った。
「今は……それはできない」
「どうして!?」
「俺は見届けなくちゃいけないんだ。この街と、この国の行方(ゆくえ)を」
 唯音は大きく眼を見開いたまま、彼を凝視した。
 焦燥がこみあげてくる。もう離れるのは嫌──。叫びたいのに、唇が動かない。

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登場人物紹介

貴堂唯音(きどうゆいね)


十八歳。日本での窮屈な暮らしから逃れ、歌手をめざして上海にやって来る。

中原悠哉(なかはらゆうや)


唯音の義理の兄。上海でジャズ・ミュージシャンをしている。

リュウ


唯音が出会った中国人の青年。上海を離れていたが、ある目的を秘めて戻って来る。

貴堂大佐


唯音のおじ。武官として上海に駐在している。

早くに妻を亡くし、唯音を実の娘のように可愛がっている。

アレクセイ


ナイトクラブ「ブルーレディ」のウェイター長。彼が子供の頃、祖国で革命が起こり、両親と共に上海に逃れてきた。

リーリ


ブルーレディの踊り子。リュウとはかつて恋人同士だったと言うが……。

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