第26話 蘇州

文字数 1,324文字

 上海の西に位置する蘇州は、かつての古い王朝の都。いくつもの運河が流れる街には、黒瓦と白壁の家々、緑の柳が点在している。
「ここがあなたのご推薦の街なのね」
 街の北、駅で列車を降りると、唯音は辺りを見渡した。確かに、活気と喧騒にあふれた上海と比べると、緑が多くて落ち着いた印象だ。
「まずは食事だな。美味(うま)い店を知ってる。行ってみるかい?」
 賛成! と唯音がはしゃいだ声を上げる。
 駅前の大通りを外れ、路地を歩く。石造りの重厚なビルが林立する上海とは、まったく街の様子が違っている。通りの両側の家々は白い壁に囲まれ、そのすぐ後ろは運河になっている。
 橋の上で遊ぶ子供たちや、洗濯をする者。運河は人々の暮らしと結びつき、生活の一部となっている。
 ゆったりと時間が流れているかのような、運河に囲まれた美しい街。彼が唯音を連れていったのは、小運河に沿ったささやかな食堂だった。
 中に入ると、主人らしい男性が目ざとく声をかけてくる。
「いらっしゃい! おや、リュウ、久しぶり!」
 彼を見知っているらしい主人は、愛想よく笑顔を向けながら近づいてくる。
「久しぶりだね、主人」
「来てくれて嬉しいよ。さあ、席について。今日は綺麗なお嬢さんを連れているじゃないか」
 唯音は会釈し、示された質素な木のテーブルにつく。窓際の、小さな運河が見える席だ。
「まずはお茶を持ってこようか」
「ああ。お願いするよ」
 前掛けで手を拭きながら、主人はいそいそと奥に引っ込んでいく。
「ここのご主人と親しいみたいね」
「両親の友人だった人たちでね、俺が子供の頃からの知り合いなんだ」
 唯音が納得したところへ、主人が茉莉花(ジャスミン)の香りのするお茶を盆に載せて戻ってきた。今度はここの女主人らしい女性も一緒だった。
「おやまあ、本当にリュウじゃないか!」
「元気そうだね、レイファン」
 溌剌(はつらつ)とした女主人は唯音に視線を移し、満面に笑みを浮かべた。
「女の子連れとはね。いよいよお前さんも身をかためるのかい?」
 突拍子もない質問に、二人はあやうくお茶をこぼしそうになった。
「そんな、わたしたち……」
 唯音は真っ赤になって口ごもる。
「別に、そういうわけじゃない」
「照れなくてもいいじゃないか。式はいつなんだい?」
 ひとり合点してにこにこする女主人に、リュウが額に手を当てて渋面をつくる。
「その話はもういいから、ここの自慢料理を二人分頼むよ」
「はいよ。任せておおき。とっておきの料理を出してあげる」
 でっぷりした体を揺すって彼女が笑い、調理場に姿を消す。しばらくしてテーブルに並んだのは上品な点心、それに郊外の湖や川で取れる魚介料理の数々だった。
 水郷の料理を堪能して、唯音は中国風の長い箸を置いた。
「ごちそうさま。もうお腹いっぱいよ」
「お口に合ったかね、お嬢さん」
「はい、とても」
「気に入ってもらえたら嬉しいよ」
「ごちそうさま、主人。昔と変わらず美味(うま)かったよ」
 懐かしげに笑みを刻むリュウに、主人は片目をつむってみせる。
「今度会う時は、結婚したって報告を聞きたいものだね」
 主人が言えば、女主人も負けじと口を出す。
「そりゃ大変なこともあるけど、いいもんだよ」
 呆気にとられる唯音の横で、二人がかりの攻勢に彼が頭を抱え込んだ。






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登場人物紹介

貴堂唯音(きどうゆいね)


十八歳。日本での窮屈な暮らしから逃れ、歌手をめざして上海にやって来る。

中原悠哉(なかはらゆうや)


唯音の義理の兄。上海でジャズ・ミュージシャンをしている。

リュウ


唯音が出会った中国人の青年。上海を離れていたが、ある目的を秘めて戻って来る。

貴堂大佐


唯音のおじ。武官として上海に駐在している。

早くに妻を亡くし、唯音を実の娘のように可愛がっている。

アレクセイ


ナイトクラブ「ブルーレディ」のウェイター長。彼が子供の頃、祖国で革命が起こり、両親と共に上海に逃れてきた。

リーリ


ブルーレディの踊り子。リュウとはかつて恋人同士だったと言うが……。

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