第74話 とどまる理由

文字数 541文字

 唯音はもう一度、自分自身に確認するようにつぶやいた。
「わたし、どこにも行かない。上海にいるわ。この街で働いて自分の力で暮らしていくわ」
「上海にとどまる理由は本当にそれだけかい?」
「え?」
 唐突な問いかけに、唯音はまばたきする。
「どういう意味?」
「いや……何でもない」
 悠哉が視線をそらし、黙りこむ。彼女もまた眼をそらし、通りにそびえる石造りのビルに視線を向けた。
 悠哉の言いたいことはわかっていた。
 今も強い力で、自分をこの街につなぎとめるもの。
 正直なところ、自分でもよくわからなかった。
 彼との恋は終わったはずなのに、どうしてこんなに胸がうずくのだろう。
 今さら、どうにもならないというのに。
 リュウの消息は一切わからなかった。自分のために仲間を裏切ってしまった彼は、かつての同志に追われ、もうこの街にはいないだろう。
 ──忘れるわ。せめて忘れたふりをするわ。
 はらはらと舞い落ちるアカシアの花びらを手のひらに受けながら、唯音は自分に言い聞かせた。

 だが、人々のささやかな愛や葛藤を飲みこんで、二つの国の状況は悪化の一途をたどっていた。
 日本の支配と、それに対する抵抗。中国人の独立を求める声は日ごとに激しさを増し、日本軍は力で押さえこもうとする。
 衝突は、時間の問題だった。

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登場人物紹介

貴堂唯音(きどうゆいね)


十八歳。日本での窮屈な暮らしから逃れ、歌手をめざして上海にやって来る。

中原悠哉(なかはらゆうや)


唯音の義理の兄。上海でジャズ・ミュージシャンをしている。

リュウ


唯音が出会った中国人の青年。上海を離れていたが、ある目的を秘めて戻って来る。

貴堂大佐


唯音のおじ。武官として上海に駐在している。

早くに妻を亡くし、唯音を実の娘のように可愛がっている。

アレクセイ


ナイトクラブ「ブルーレディ」のウェイター長。彼が子供の頃、祖国で革命が起こり、両親と共に上海に逃れてきた。

リーリ


ブルーレディの踊り子。リュウとはかつて恋人同士だったと言うが……。

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