第96話 歌声

文字数 830文字

 運河にかかる鉄橋を渡り、コンクリートの防波堤に沿ってゆっくりと足を運んでいく。おそらくはここを歩くのも最後になるだろう。
 と、通りの人混みの中、前を歩く青年の姿に、唯音ははっと息を呑んだ。
「待って!」
 とっさに走り寄り、その腕をつかむ。青年が驚いたように振り返る。
 が、その顔を見て、唯音は唇を噛んだ。
「あの、ごめんなさい。人違いでしたわ」
 いいえ、と青年は短く答え、何事もなかったように背を向けて歩き出す。
 雑踏の中で、残された唯音は苦く笑った。
 ──バカね。何を期待していたの。
 こうして外灘(バンド)を歩いていると、この街に着いたのがつい先日のことのように感じられる。上海の思い出が、次々と脳裏をよぎっていく。
 海を越えて、初めて上海の土を踏んだ日。ブルーレディでのステージ。そしてリュウとの出会い。陰謀。おじの死。戦争……。
 唯音は涙をこらえるように、眼をしばたたかせた。
 上海の街は何事もなかったかのようにそこにあった。ただ、彼だけがいなかった。
 湿った川風にほつれる髪をかきやると、唯音は税関の時計台を見上げた。
 もう船に戻らなくては。出港の時間が近づいている。悠哉が待っている。
 アレクセイのくれたイヤリングにそっとふれ、引き返そうとした刹那(せつな)、不意にこらえていた涙があふれてきて、唯音は両手を顔に押し当てた。
 ──リュウ。
 あふれる涙が眼もとをおおった手のひらを伝わり落ちる。
 まだ……愛してる。
 それが偽りのない心。いくら打ち消そうとしても消せない想い。あれほど悠哉に愛されているのを知りながら。
 指先で眼をぬぐうと唯音は途切れがちに歌をくちずさんだ。

   あなたはわたしにとって
   ただひとりのひと
   離れていても遥かに名を呼ぶ
   
 きれぎれに、港を渡る風に乗って彼女の歌声が響く。
 いつだったか、彼のピアノで歌った。仲間たちと一緒に笑いあいながら。

   想いが届かないのならせめて
   この髪がのびて
   あなたのもとへと届けばいいのに
   
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登場人物紹介

貴堂唯音(きどうゆいね)


十八歳。日本での窮屈な暮らしから逃れ、歌手をめざして上海にやって来る。

中原悠哉(なかはらゆうや)


唯音の義理の兄。上海でジャズ・ミュージシャンをしている。

リュウ


唯音が出会った中国人の青年。上海を離れていたが、ある目的を秘めて戻って来る。

貴堂大佐


唯音のおじ。武官として上海に駐在している。

早くに妻を亡くし、唯音を実の娘のように可愛がっている。

アレクセイ


ナイトクラブ「ブルーレディ」のウェイター長。彼が子供の頃、祖国で革命が起こり、両親と共に上海に逃れてきた。

リーリ


ブルーレディの踊り子。リュウとはかつて恋人同士だったと言うが……。

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