第32話 リーリ

文字数 641文字

 裏口からホールへ続く廊下の途中で、唯音はアレクセイと別れた。彼には開店の準備があったし、唯音も舞台のために着替えないといけなかった。
 ホールへ早足で向かうアレクセイを見送り、楽屋に入ろうとした時。
「唯音」
 高い、きつい声に呼び止められ、唯音は足を止めた。いつの間にかそばにはリーリが立っていた。唯音と同い年の、整った顔立ちの踊り子だ。
「リーリ?」
 別に仲が良いわけではない。思いがけない相手に声をかけられ、まばたきする唯音に挑戦的に言い放つ。
「時間いい? ちょっと話があるのよ」
「え、ええ……」
 気圧されるようにして唯音はうなずいた。仕度をする時間だったが、リーリの口調には有無を言わせないものがあった。
「廊下で話をするのもまずいわ。楽屋に入って」
 うながす唯音にリーリは首是し、二人は楽屋に入るとドアを閉めた。
「どうぞ、座って」
「いいえ、このままでいいわ」
 椅子をすすめる唯音を、リーリはあっさりと断った。仕方なしに唯音は自分も立ったまま口を開いた。
「それで、お話って?」
「あなた、彼とつきあってるって本当なの?」
 彼? と訊き返す唯音に、リュウよ、と告げる。
 唯音は返答をためらった。確かリーリは彼のことを……。
「どうなの!?」
「あなたには、関係ないわ」
「いいえ、あるわ!」
 激しい口調に唯音は眼を細め、リーリを凝視した。
「関係があるというのなら、どんな?」
「あなたがここに来るまではね、あたしがあの人の恋人だったのよ!」
 リーリが、彼の?
 唯音は唇を噛み、細い眉をひそめた。

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登場人物紹介

貴堂唯音(きどうゆいね)


十八歳。日本での窮屈な暮らしから逃れ、歌手をめざして上海にやって来る。

中原悠哉(なかはらゆうや)


唯音の義理の兄。上海でジャズ・ミュージシャンをしている。

リュウ


唯音が出会った中国人の青年。上海を離れていたが、ある目的を秘めて戻って来る。

貴堂大佐


唯音のおじ。武官として上海に駐在している。

早くに妻を亡くし、唯音を実の娘のように可愛がっている。

アレクセイ


ナイトクラブ「ブルーレディ」のウェイター長。彼が子供の頃、祖国で革命が起こり、両親と共に上海に逃れてきた。

リーリ


ブルーレディの踊り子。リュウとはかつて恋人同士だったと言うが……。

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