第35話 会話

文字数 720文字

「失礼します」
 そっとノックしてドアを開け、唯音は中に足を踏み入れた。
 明るく広いが無機質な白い部屋の中に、貴堂のおじは包帯を巻いた姿で横たわっていた。ベッドの脇に立っていた医師が黙って一礼する。
「おじさま……」
 唯音は静かな足取りでベッドに近づいていった。眠っているのか、おじは眼をつむっている。
 そうっと歩み寄り、彼女が枕元にかがみこんだ時だ。おじはうっすらと(まぶた)を開けた。唯音か、と唇が動く。
「ご気分はいかがです? 痛みます?」
「いや、痛みはしないよ。麻酔が効いているからな」
 言葉の代わりに、つうっと涙が唯音の頬を伝い落ちた。
「何も、おまえが泣くことはあるまい」
 大佐がかすれた声で言い、苦笑する。
「大丈夫だ。命に別状はないし、大したことはない。じきに良くなるさ」
「ええ、そうよ。おとなしく療養してくだされば、すぐに良くなりますわ」
 おじの顔をのぞきこむようにして、唯音は優しく語りかける。
「悠哉くんにも心配をかけてすまんな」
「いいえ、お大事にして早く良くなってください」
 それまで無言で立っていた医師が二人に目配(めくば)せした。これ以上の会話は無理なようだった。
 唯音はゆっくりと枕元から立ち上がった。
「何か欲しいものがあったら、おっしゃってくださいね。わたし、毎日お見舞いに来ますから」
 ありがとう、と小さな声でおじが礼を言う。
「今日はこれで……決して無理なさらないでくださいね」
 それから唯音は医師に向かって深く頭を下げた。
「どうぞ、おじをよろしくお願いします」
 はい、とまだ若い医師は短く、職務的に答えた。
「ご心配なく。治療には万全の態勢であたりますので」
 もう一度、頭を下げ、眼を閉じたおじの顔を見ると、唯音は悠哉と共に病室を出た。

ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

貴堂唯音(きどうゆいね)


十八歳。日本での窮屈な暮らしから逃れ、歌手をめざして上海にやって来る。

中原悠哉(なかはらゆうや)


唯音の義理の兄。上海でジャズ・ミュージシャンをしている。

リュウ


唯音が出会った中国人の青年。上海を離れていたが、ある目的を秘めて戻って来る。

貴堂大佐


唯音のおじ。武官として上海に駐在している。

早くに妻を亡くし、唯音を実の娘のように可愛がっている。

アレクセイ


ナイトクラブ「ブルーレディ」のウェイター長。彼が子供の頃、祖国で革命が起こり、両親と共に上海に逃れてきた。

リーリ


ブルーレディの踊り子。リュウとはかつて恋人同士だったと言うが……。

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み