第38話 侮蔑

文字数 797文字

「初めて会った時から、ずっと唯ちゃんだけを見ていた」
 テーブルを回り込み、ゆっくりと悠哉が歩み寄る。
「知っていただろう? 僕が誰を想ってきたか」
 唯音は言葉もなく眼を伏せた。とっくに知っていた。
「別に僕じゃなくてもいい。唯ちゃんが愛した相手と幸せになれば、それでいいと思ってた」
 心の奥底まで射るような思いつめた眼差しに、唯音は一歩後ずさる。
「だが、彼は駄目だ。彼では唯ちゃんを幸せにできない。──渡さない」
 二人の距離がじりじりと縮まり、さらに後ずさろうとする唯音を、悠哉はきつく抱きしめた。
「悠哉さん!?」
 さして広くないダイニングで、テーブルの端に体がぶつかった。紅茶のカップが床に落ち、派手な音をたてて割れた。
「離して!」
 つっぱねようとしても、びくともしない。ますます抱きしめる腕に力がこもっていく。
 悠哉は彼女を背後の壁に押しつけると、強引に唇を重ねた。
 唇をふさがれながら、唯音は逃れようと懸命にもがいた。今、無理矢理自分を抱きしめているのは、唯音の知っている優しい彼とは別人のようだった。
 壁を伝って二人はずるずると崩れ落ちていく。木の床に、唯音の体がどさっと押し倒される。
「いやっ……!」
 (あらが)う唯音のブラウスのボタンを引きちぎるようにして胸もとを広げ、白い肌に唇を押し上げようとしたした時。
 唯音の瞳が、まっすぐに彼を射た。
 力ずくで自分を意のままにしようとする者への、抵抗と侮蔑の色。
 だが、その激しい色は一瞬で、次の刹那、唯音の眼から涙がころがり落ちた。
「いやよ……やめて。お願いだから、悠哉さんを嫌いにさせないで……」
「唯ちゃん……」
 押さえつけていた力がふっとゆるんだ。両手で顔をおおい、唯音はふうっと大きな息をついた。
「もし、それでもわたしを抱こうとするなら、好きにすればいいわ。だけど、今だけよ。わたしは決してあなたのものにはならない」
 悠哉の瞳が辛そうに歪んだ。

ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

貴堂唯音(きどうゆいね)


十八歳。日本での窮屈な暮らしから逃れ、歌手をめざして上海にやって来る。

中原悠哉(なかはらゆうや)


唯音の義理の兄。上海でジャズ・ミュージシャンをしている。

リュウ


唯音が出会った中国人の青年。上海を離れていたが、ある目的を秘めて戻って来る。

貴堂大佐


唯音のおじ。武官として上海に駐在している。

早くに妻を亡くし、唯音を実の娘のように可愛がっている。

アレクセイ


ナイトクラブ「ブルーレディ」のウェイター長。彼が子供の頃、祖国で革命が起こり、両親と共に上海に逃れてきた。

リーリ


ブルーレディの踊り子。リュウとはかつて恋人同士だったと言うが……。

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み