第52話 逮捕

文字数 622文字

 公園に入って緑の樹々の中を歩きながら、唯音は彼を見上げた。
「どうしたの? 今日は本当に変ね」
 間近で見つめながら、白い細い指をそっと彼の頬に当てる。
「唯音……」
 彼が眼を細め、その表情に唯音はどきっとした。これまで見たこともない、ひどく辛そうな瞳。
「何が、あったの」
 返事はなく、リュウは彼女の手を取ってベンチへとうながした。緑の木陰で二人は木製のベンチに腰を降ろした。
 木立ちの向こうから街のざわめきが聞こえ、公園を散歩する人々が前を通り過ぎていく。
 彼は無言でじっと何かを考えこみ、唯音も黙っていた。訊いてはいけない、そんな気がした。
 太陽が辺りを金色に染め、夕暮れが訪れようとしていた。言葉を交わさない長い時間が過ぎた後、唯音はためらいがちに口を開いた。
「わたし、そろそろお店に行かないと……」
 立ち上がろうとした彼女の腕を彼がつかむ。
「リュウ?」
 訝し気に名を呼ぶ彼女を引き寄せ、彼はきつく抱きしめた。
「だめよ! こんなところで……」
 腕の中で(あらが)う唯音を抱きしめたまま、絞り出すような声で告げる。
「……仲間が、逮捕されたんだ」
 抵抗する手を止めて、唯音は眼を見開いた。
「いったい、誰に逮捕されたというの!?」
「日本の憲兵隊だ」
 唯音の脳裏を、先日追われていた男の姿がよぎった。リュウの仲間もあんな風に追われ、捕えられたのだろうか。
 彼の心を占めていたのは、このことだったのだ。
 深刻な話をかかえながら、二人はベンチを離れて歩き出した。

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登場人物紹介

貴堂唯音(きどうゆいね)


十八歳。日本での窮屈な暮らしから逃れ、歌手をめざして上海にやって来る。

中原悠哉(なかはらゆうや)


唯音の義理の兄。上海でジャズ・ミュージシャンをしている。

リュウ


唯音が出会った中国人の青年。上海を離れていたが、ある目的を秘めて戻って来る。

貴堂大佐


唯音のおじ。武官として上海に駐在している。

早くに妻を亡くし、唯音を実の娘のように可愛がっている。

アレクセイ


ナイトクラブ「ブルーレディ」のウェイター長。彼が子供の頃、祖国で革命が起こり、両親と共に上海に逃れてきた。

リーリ


ブルーレディの踊り子。リュウとはかつて恋人同士だったと言うが……。

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