第102話 好きな相手

文字数 927文字

 時は流れ、学校を卒業したリュウはナイトクラブでピアノ弾きの仕事をしていた。フランス租界にある店だ。
 ある日の午後、メイインと共にお茶を飲んでいたリュウは言った。
「この家を出ようと思っているんだが」
 メイインは驚いてあやうく紅茶をこぼすところだった。
「いきなりどうしたの? 何か不満があるの?」
 まさか、と彼は首を横に振る。
「そうじゃない。あなたには感謝してる。ただ……」
「ただ……?」
「もう学校も卒業したし、いつまでも甘えていられない。それにあなたが誰かと一緒になりたいと思った時、俺みたいなのがいたら邪魔だろう?」
 メイインは一瞬きょとんとした顔をして、それからころころと鈴のような声で笑い出した。
「何を言いだすのかと思ったら……」
 まだ笑みを残しながら、二杯目の紅茶を入れる。
「あなた、好きな相手はいないの? リーリは? あなたのことを好いているみたいだけど」
「彼女はただの幼なじみさ」
 想う相手は、今、眼の前にいる。そう告げたらメイインはなんと言うだろう。
「……好きな(ひと)ならいるよ」
「まあ。リーリでないなら誰? わたしの知っている娘さんかしら」
「ああ、よく知っている。──あなただよ。メイイン」
 ティーポットを手にしたまま、メイインは眼を見開いた。
「まさか、いやだわ、からかわないで」
「からかってなどいない。本気さ」
 おばと言っても、メイインは養女だったから血のつながりはない。
「わたしはあなたよりずっと年上なのよ」
 メイインは動揺しながら、自分を見つめるリュウに視線を返した。そこにいたのは十九歳の青年だった。
 いつの間にこんなに大人になっていたのだろう。自分の中ではずっと少年だったのに。
 リュウは彼女の手を取って、
「この手が俺を救ってくれた。あの時、あなたが手を差しのべてくれなかったら、俺はあのまま死んでいただろう」
 メイインが寂しげに微笑する。
「あなたは感謝と愛情を取り違えているだけよ」
「違う! 俺は……」
 人差し指を立てて、メイインはリュウの唇をふさいだ。
「わたしは今もレンを愛してる。もうそんなに長い時間ではないわ。あなたはいずれ愛する相手と巡り会って、新しい家庭を築くためにこの家を出ていくわ。だから……その時まではここにいて」

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登場人物紹介

貴堂唯音(きどうゆいね)


十八歳。日本での窮屈な暮らしから逃れ、歌手をめざして上海にやって来る。

中原悠哉(なかはらゆうや)


唯音の義理の兄。上海でジャズ・ミュージシャンをしている。

リュウ


唯音が出会った中国人の青年。上海を離れていたが、ある目的を秘めて戻って来る。

貴堂大佐


唯音のおじ。武官として上海に駐在している。

早くに妻を亡くし、唯音を実の娘のように可愛がっている。

アレクセイ


ナイトクラブ「ブルーレディ」のウェイター長。彼が子供の頃、祖国で革命が起こり、両親と共に上海に逃れてきた。

リーリ


ブルーレディの踊り子。リュウとはかつて恋人同士だったと言うが……。

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