第4話 自由
文字数 1,282文字
小一時間後、クラシカルなホテルのティールーム。
先刻から幾度も時計を気にしながら、悠哉はすっかり冷めてしまったコーヒーに口をつけた。
約束の時間はとっくに過ぎているのに、唯音はまだ姿を現さない。
彼は初めての街で唯音をひとりにしたことを後悔し始めていた。
ここは洗練と悪徳が同居する上海なのだ。やはり一緒に行くべきだった、と唇を噛んだ時。
どこか気だるい雰囲気の漂う、ほの暗いロビー。そこを横切り、ティールームの入り口に立つ、ほっそりした姿が見えた。彼を心配させた張本人だった。
「唯ちゃ……」
安堵した悠哉は片手を上げようとして、あんぐり口を開けた。
唯音は口を開けたまま固まっている彼に向って、にっこり笑いかけ、テーブルにやって来る。
「遅くなってごめんなさい。思ったより時間がかかってしまって」
近づいてきたウエイターにコーヒーを注文する唯音を、悠哉は穴が開くほど見つめたままだ。
別れた時とは、打って変わった姿。
編み込まれていた髪はほどかれ、胸のあたりまで垂らされている。着ているのはスリットが深く入った真紅のチャイナドレス。鮮やかな真紅の地に牡丹の花を刺繍した衣装は、唯音の若々しい姿をより引き立たせている。
「どう? 似合うかしら」
彼の驚愕をよそに、弾んだ声音で問いかける。
「そりゃ、似合うけど、ずいぶんと思い切って……」
「わたしね、決めてたのよ。この街に来たら、自分の好きなように、うんとお洒落しようって。日本では父も母もやかましくて、ずっと窮屈だったんですもの」
心底嬉しげに吐息して、唯音は背に垂らした髪をかきやった。
「これでやっと本当に自由になれた気がするわ」
もう格式ばった家も、口うるさい両親も、遠い彼方だ。全部クイーン・オリエンタル号のデッキから海に放り投げてきてしまった。
しばし言葉を失くしていた悠哉は、諦めたように苦笑した。
「自由でいたい──唯ちゃんの口癖だったな」
「ふふっ、そうよ。わたし、自分の意志で生きたいの。誰のものでもない。何ものにも縛られたくない」
「今まで着ていた服はどうしたんだい?」
「ああ、あれ? あげちゃった」
「誰に!?」
「このドレスを買ったお店のお針子さん。素敵なお洋服ですね、って褒めてくれたのでプレゼントしちゃったの。あんなお堅い服、もう着ないつもりだったし」
「……」
悠哉が額に手を当てて絶句しているところへコーヒーが運ばれ、唯音は子供のようにはしゃいだ表情でカップを引き寄せた。
「本当に困ったお嬢さんだ」
ぼやきながらも彼の眼が笑っているのを、彼女は充分承知している。
乳白色のカップから香ばしい匂いが漂ってくる。ひと口飲むと、唯音はゆったりと自分のいるティールームを見渡した。
高い天井と豪華なシャンデリア。背の高い窓には真っ白なカーテン。夜になると生演奏があるのだろう、一段高くなったフロアにはピアノやドラムが置かれている。
回転扉をくぐり、建物の外へ一歩踏み出せば、たちまち喧騒に取り巻かれてしまうというのに。この静けさに満ちたティールームにいると、街のざわめきがまるで別世界のように感じられる。

先刻から幾度も時計を気にしながら、悠哉はすっかり冷めてしまったコーヒーに口をつけた。
約束の時間はとっくに過ぎているのに、唯音はまだ姿を現さない。
彼は初めての街で唯音をひとりにしたことを後悔し始めていた。
ここは洗練と悪徳が同居する上海なのだ。やはり一緒に行くべきだった、と唇を噛んだ時。
どこか気だるい雰囲気の漂う、ほの暗いロビー。そこを横切り、ティールームの入り口に立つ、ほっそりした姿が見えた。彼を心配させた張本人だった。
「唯ちゃ……」
安堵した悠哉は片手を上げようとして、あんぐり口を開けた。
唯音は口を開けたまま固まっている彼に向って、にっこり笑いかけ、テーブルにやって来る。
「遅くなってごめんなさい。思ったより時間がかかってしまって」
近づいてきたウエイターにコーヒーを注文する唯音を、悠哉は穴が開くほど見つめたままだ。
別れた時とは、打って変わった姿。
編み込まれていた髪はほどかれ、胸のあたりまで垂らされている。着ているのはスリットが深く入った真紅のチャイナドレス。鮮やかな真紅の地に牡丹の花を刺繍した衣装は、唯音の若々しい姿をより引き立たせている。
「どう? 似合うかしら」
彼の驚愕をよそに、弾んだ声音で問いかける。
「そりゃ、似合うけど、ずいぶんと思い切って……」
「わたしね、決めてたのよ。この街に来たら、自分の好きなように、うんとお洒落しようって。日本では父も母もやかましくて、ずっと窮屈だったんですもの」
心底嬉しげに吐息して、唯音は背に垂らした髪をかきやった。
「これでやっと本当に自由になれた気がするわ」
もう格式ばった家も、口うるさい両親も、遠い彼方だ。全部クイーン・オリエンタル号のデッキから海に放り投げてきてしまった。
しばし言葉を失くしていた悠哉は、諦めたように苦笑した。
「自由でいたい──唯ちゃんの口癖だったな」
「ふふっ、そうよ。わたし、自分の意志で生きたいの。誰のものでもない。何ものにも縛られたくない」
「今まで着ていた服はどうしたんだい?」
「ああ、あれ? あげちゃった」
「誰に!?」
「このドレスを買ったお店のお針子さん。素敵なお洋服ですね、って褒めてくれたのでプレゼントしちゃったの。あんなお堅い服、もう着ないつもりだったし」
「……」
悠哉が額に手を当てて絶句しているところへコーヒーが運ばれ、唯音は子供のようにはしゃいだ表情でカップを引き寄せた。
「本当に困ったお嬢さんだ」
ぼやきながらも彼の眼が笑っているのを、彼女は充分承知している。
乳白色のカップから香ばしい匂いが漂ってくる。ひと口飲むと、唯音はゆったりと自分のいるティールームを見渡した。
高い天井と豪華なシャンデリア。背の高い窓には真っ白なカーテン。夜になると生演奏があるのだろう、一段高くなったフロアにはピアノやドラムが置かれている。
回転扉をくぐり、建物の外へ一歩踏み出せば、たちまち喧騒に取り巻かれてしまうというのに。この静けさに満ちたティールームにいると、街のざわめきがまるで別世界のように感じられる。
