第64話 脱出

文字数 1,042文字

「何よ、ちっとも食べてないじゃないの」
 しばらくすると再び足音が聞こえ、ドアが開けられた。食器を下げに来たリーリだった。
「強情張ってないで食べなさいよ。体がもたないわよ」
 無言で首を振る唯音に、呆れたように肩をすくめてみせる。
「そう。なら仕方ないわね」
 リーリが入って来る際に唯音は外の気配をうかがった。見張りはいないようだ。
 抵抗活動に関わっているとはいえ、リーリは素人なのだろう。鍵は外されたままになっている。
 唯音はぎゅっと唇を噛んだ。眼の前のリーリさえどうにかすれば、少なくとも部屋の外へは出られるはずだ。
 賭けてみよう、と思った。
 リーリは軽く腰をかがめ、食器を取ろうとしている。唯音はそんな彼女を突き飛ばして、ドアへと走った。
「きゃっ!」
 均衡を崩したリーリは大きくよろけて床に尻もちをついた。
「誰か! 人質が逃げるわ!」
 案の定、手をかけるとドアはすんなり開いた。リーリの叫び声にはおかまいないしに部屋の外に飛び出し、唯音は廊下を走った。
 広い家だった。廊下がいくつもつながり、まずで迷路のようだ。
 リーリの声を聞きつけたのか、ばたばたと行き交う足音があたりに反響する。
 このままでは見つかってしまう。
 唯音は廊下に面した窓に眼を向けた。彼女が通り抜けられるくらいの大きさは充分にあった。
 が、開けようと手をかけると鍵がかかっていて、そうしている間にも足音は近づいてくる。
 古ぼけた小さな鍵だった。唯音は祈るような気持ちで、ありったけの力で取っ手を引いた。すると、まるで魔法のように鍵が外れて窓は開いた。
 身を乗り出して下を見ると、幸いにも一階だった。唯音は窓枠に足をかけ、全身を乗せた。はずみをつけて外へ飛び降りる。
 着地すると近くの茂みに身を隠し、あたりを見回すと少し先に門が見えた。
 周囲はぐるりと高い塀に囲まれていて他からは出られそうもない。
 危険だけど、あの門まで行くしかない。唯音は決意した。
 まだ彼女が中にいると思っているのだろう、門に人影は見当たらない。
 身を低くして走り、閉ざされた門の前まで来て力いっぱい動かそうとする。
 お願い、開いて!
 しかし唯音の願いも虚しく、黒光りする鉄の門はびくともしなかった。
「いたぞ!」
 背後から叫ぶ声がして振り返る。建物から男たちがばらばらと出てくる。
 さらに力をこめて揺すってみる。が、結果は同じだった。
 追いつめられた唯音は門を背にして、近づいてくる彼らを凝視した。
 逃げられない。絶望的な思いが彼女にのしかかる。

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登場人物紹介

貴堂唯音(きどうゆいね)


十八歳。日本での窮屈な暮らしから逃れ、歌手をめざして上海にやって来る。

中原悠哉(なかはらゆうや)


唯音の義理の兄。上海でジャズ・ミュージシャンをしている。

リュウ


唯音が出会った中国人の青年。上海を離れていたが、ある目的を秘めて戻って来る。

貴堂大佐


唯音のおじ。武官として上海に駐在している。

早くに妻を亡くし、唯音を実の娘のように可愛がっている。

アレクセイ


ナイトクラブ「ブルーレディ」のウェイター長。彼が子供の頃、祖国で革命が起こり、両親と共に上海に逃れてきた。

リーリ


ブルーレディの踊り子。リュウとはかつて恋人同士だったと言うが……。

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