第2話 異国
文字数 1,521文字
第一章 魔都
長崎から、船で一昼夜。
客船クイーン・オリエンタル号は群青の東シナ海を越えて長江へと入り、さらにその支流である黄浦江 を遡 っていた。
風の強い日だった。唯音 は両手を手すりにかけ、デッキに立っていた。
すらりとした小柄な娘だ。品のいい白いスーツに身を包み、長い髪を後ろでひとつに編み込んでいる。
乗客の姿もまばらなデッキで唯音は飽きることなく大地の色をした褐色の流れを眺め続けた。
やがて徐々に行き交う船の数が多くなり、優雅な白い外国船や、いかめしい軍艦までもが見え始めた頃。
風にほつれる髪をかきやりながら、唯音は眼をこらした。彼女の眼前に巨大な国際都市が姿を現したのだ。
港に沿って外灘 と呼ばれる通りに、西洋風の重厚なビルが並んでいる。時計台のある税関、丸屋根の銀行、青い三角屋根のホテル。それらはまるで城壁のように連なり、誇らしげに川風を受けている。
「上海 ……」
唯音の口から魅惑的な響きを持った、異国の地名がこぼれ落ちた。
東洋の一端なのに、まるでヨーロッパの港町のようだ。
小さく息を吸い込み、決意を新たにするかように唯音は形のいい唇をきりっと結んだ。
日本での窮屈な暮らしを飛び出して、これからこのエキゾチックな街で新しい生活が始まるのだ。
期待に胸をときめかせる唯音を乗せたオリエンタル号は、重厚なビル群と黒い鉄橋を臨みながら埠頭に近づいていく。
桟橋に着くと、唯音はデッキから身を乗り出して辺りを見回した。悠哉 が迎えに来てくれているはずだ。
「唯ちゃん!」
港の荷役労働者たちと出迎えの人々の喧騒に混じって、自分を呼ぶ声が聞こえた気がした。唯音はもう一度、波止場に注意深く視線を巡らせ、眼を輝かせた。
額にかかる柔らかな前髪。きちんとネクタイをしめたワイシャツ。仕立てのいいコートを着た青年がこちらに向けて大きく手を振っている。
「悠哉さん!」
唯音も手を振り返して彼の名を呼んだ。桟橋とデッキで瞳を見かわし、微笑みあう。
が、荷物と一緒にタラップを降りたとたん、唯音は人波にもみくちゃにされ、なかなか彼の元へとたどり着けなかった。
ごった返す人々の中で、唯音の華奢 な姿はひどく儚 く見えた。急いで人混みをかき分けて近づくと、悠哉はかばうようにその肩を抱き、もう一方の手でトランク──彼女の全財産を預かった。
「大丈夫かい?」
「ええ、平気よ。着いた早々、この騒ぎで少し驚いたけど」
「とにかくここから出よう。話はそれからだ」
人波をかいくぐって埠頭を脱出し、ようやく歩道まで来たところで、彼は楽し気に笑った。
「ようこそ、上海へ。ついに本当に来ちまったんだね」
唯音は頬を紅潮させ、胸の前で両手を組み合わせる。
「そうよ。わたし、来たわ。自由になるために。よろしくね、義兄 さん」
「まかせとけって」
親指を立ててうなずく彼は唯音の姉の夫、その弟だ。彼女にとって義理の兄である悠哉は三年ほど前にこの街に渡り、ジャズ・ミュージシャンをしている。
と言ってもこざっぱりとした格好はミュージシャンというより、堅気の勤め人という雰囲気だ。
「ね、ところでわたしはまず何から始めたらいいかしら」
港をよぎっていくジャンクを眺めながら唯音がたずねると、悠哉は少し考えこんだ。
「とりあえずアパートに行って荷物を置くといい。唯ちゃんに頼まれていた通り、家具付きの部屋を借りておいたんだ。西洋風の小綺麗 なアパートでね、きっと気に入るよ」
「ありがとう、悠哉さん!」
感謝のまなざしを向ける唯音に、どういたしまして、と微笑み返す。
「荷物を置いて身軽になったら、さっそく繰り出そう。唯ちゃんにこの街を見せてあげるよ」

長崎から、船で一昼夜。
客船クイーン・オリエンタル号は群青の東シナ海を越えて長江へと入り、さらにその支流である
風の強い日だった。
すらりとした小柄な娘だ。品のいい白いスーツに身を包み、長い髪を後ろでひとつに編み込んでいる。
乗客の姿もまばらなデッキで唯音は飽きることなく大地の色をした褐色の流れを眺め続けた。
やがて徐々に行き交う船の数が多くなり、優雅な白い外国船や、いかめしい軍艦までもが見え始めた頃。
風にほつれる髪をかきやりながら、唯音は眼をこらした。彼女の眼前に巨大な国際都市が姿を現したのだ。
港に沿って
「
唯音の口から魅惑的な響きを持った、異国の地名がこぼれ落ちた。
東洋の一端なのに、まるでヨーロッパの港町のようだ。
小さく息を吸い込み、決意を新たにするかように唯音は形のいい唇をきりっと結んだ。
日本での窮屈な暮らしを飛び出して、これからこのエキゾチックな街で新しい生活が始まるのだ。
期待に胸をときめかせる唯音を乗せたオリエンタル号は、重厚なビル群と黒い鉄橋を臨みながら埠頭に近づいていく。
桟橋に着くと、唯音はデッキから身を乗り出して辺りを見回した。
「唯ちゃん!」
港の荷役労働者たちと出迎えの人々の喧騒に混じって、自分を呼ぶ声が聞こえた気がした。唯音はもう一度、波止場に注意深く視線を巡らせ、眼を輝かせた。
額にかかる柔らかな前髪。きちんとネクタイをしめたワイシャツ。仕立てのいいコートを着た青年がこちらに向けて大きく手を振っている。
「悠哉さん!」
唯音も手を振り返して彼の名を呼んだ。桟橋とデッキで瞳を見かわし、微笑みあう。
が、荷物と一緒にタラップを降りたとたん、唯音は人波にもみくちゃにされ、なかなか彼の元へとたどり着けなかった。
ごった返す人々の中で、唯音の
「大丈夫かい?」
「ええ、平気よ。着いた早々、この騒ぎで少し驚いたけど」
「とにかくここから出よう。話はそれからだ」
人波をかいくぐって埠頭を脱出し、ようやく歩道まで来たところで、彼は楽し気に笑った。
「ようこそ、上海へ。ついに本当に来ちまったんだね」
唯音は頬を紅潮させ、胸の前で両手を組み合わせる。
「そうよ。わたし、来たわ。自由になるために。よろしくね、
「まかせとけって」
親指を立ててうなずく彼は唯音の姉の夫、その弟だ。彼女にとって義理の兄である悠哉は三年ほど前にこの街に渡り、ジャズ・ミュージシャンをしている。
と言ってもこざっぱりとした格好はミュージシャンというより、堅気の勤め人という雰囲気だ。
「ね、ところでわたしはまず何から始めたらいいかしら」
港をよぎっていくジャンクを眺めながら唯音がたずねると、悠哉は少し考えこんだ。
「とりあえずアパートに行って荷物を置くといい。唯ちゃんに頼まれていた通り、家具付きの部屋を借りておいたんだ。西洋風の
「ありがとう、悠哉さん!」
感謝のまなざしを向ける唯音に、どういたしまして、と微笑み返す。
「荷物を置いて身軽になったら、さっそく繰り出そう。唯ちゃんにこの街を見せてあげるよ」
